煙から世界を読む
第5回 私はなぜ嫌煙論に反対するのか? |
別のところでも書いたことがありますが、私は別に反禁煙運動をしているわけではありません。それに日頃いつも煙草のことばかり考えて過ごしているわけではありません。というよりも、正直言って、私にとって煙草自体は実は比較的どうでもいいテーマなのです。 これから世界は未曾有の危機を迎えるかもしれません。また大きな戦争が起こって、物資が不足したり、死の危険性が増えたりすることがあるかもしれない。 そうなった時に、煙草がどうだというようなことは言っていられなくなるし、それはチョコレートやコーヒーやお酒についてだって同じこと。つまり、煙草の問題などというのはせいぜいその程度の問題にすぎないのです。もしかしたら、私は自発的に禁煙するかもしれないし、それに実はこの連載を頼まれてから急速にパイプに興味を持ってしまったので、このところシガレットにはほとんど手を出していません。結局、煙草は嗜好品なのですから、その程度の問題にすぎないのです。 ですから、このテーマを与えられて連載を続けていくのが時々面倒くさくなることもあります。それでも、この連載をお引き受けしたのは、とにかく近年の煙草をめぐる言説や政治的な動きにとてつもなくおかしな臭いを感じているからです。もちろん、それは煙草の問題ばかりではなく、あらゆる場所で感じられることなのですが、とりわけ喫煙規制の言説にその臭いを強く感じています。 おそらくこのままの流れですと、我々喫煙者は必敗の気配が濃厚です。もはや国際的な圧力団体と化したWHOや医学団体による煙草規制は今後どんどん拡大していき、煙草が有害物質として非合法になる可能性すら起こりえます。 とても、不合理なことではありますが、もともと人間の文明というのは時々こうした不合理を犯すものなのです。そして、煙草問題の決着がつきそうになったら、彼らは黙り込むのではなく、新たな標的を見つけ出して再び激しい「反○○運動」を始めることでしょう。ですから、問題は禁煙運動に反対するということよりも、こうした「彼ら」になってはならないし、「彼ら」とは違う生き方を選びとっていかなくてはならないということなのだと思います。 文明というものは、時としてとんでもない過ちを犯します。人々は「文明」は「人間」が作り出すものだから、人間が自由にコントロールできるものだと考えています。しかし、人間はそんなに合理的な生き物ではありません。理性や論理ではコントロールできない、もっと動物的な、というか、生命の奥底に潜んでいるエネルギーや衝動によってのみ文明は変化していくのです。 むしろ問題なのは、文明を動かしているのが「人間の理性」だと確信している人々の方です。煙草をめぐる言説に典型的なように、(人間の理性に支えられた、素晴らしい!)「科学」によって煙草の有害性は「完全に証明されている」のだから、それを「絶滅」させることが「正しい」と、信じ込み、決めつけているような人々のことです。 以前に書いたように、この場合の「科学」は「ローマ教会」とほぼ同じ意味で使われています。私はこういう人たちは単純に「醜い」と思っています。こういう人たちの特徴は、WHOや医師会といった権威におもねり、それに従わない人たちに対して居丈高に自分たちの「正しさ」を押しつけようとすることです。「日本禁煙学会」(学会名称の詐称!)などというのは、まさしくそれであり、何かというと文句やいちゃもんをつけることが、社会の進歩に貢献していると信じこんでいる途方も無く頭の悪い連中です。 私はこういう卑怯で頭の悪い人たちとあんまり関わり合いになりたくないですし、それは養老孟司氏や山崎正和氏にしたところで同じでしょう。 環境問題以降、何かというとクレームをつける人々の群れが現われました。彼らは自分たちの見解に反することがあると、何に対してもクレームをつけるのが「市民の振る舞い」として正しいと信じているようです。 彼らは自らの「幸せに生きる権利」を国家や社会に対して主張します。それは、世の中が悪いのは自分ではなく自分以外の人間が間違っているからだと、彼らが考えているからです。そして、「生きる権利」を持っている自分たちが不快なことについては、テレビや新聞・雑誌のようなマスメディアから、インターネットのウェブサイトにまで、どこにでもクレームをつける。 言うまでもなく、彼らがクレームをつけているのは「人間」です。もう少し正確に言えば、人間が作り出す「文明」というシステムなのです。さすがに「自然」それ自体に対してクレームをつけたって仕方が無いということは分かっているようです。「地震」や「台風」に文句をつけたって仕方ないですし、「安心・安全に生きる権利」などというものも、所詮は人間が作ったフィクションにすぎない。それでも、彼らはこのフィクションを守る力が「文明システム」にはあると求めたがり、自然災害での死すら、行政がもう少し対応してくれたら免れることができたはずだとクレームをつけたがります。台風やハリケーンの被害を、「地球温暖化」のせいにしたがるなどというのもこうしたイデオロギーの反映です。人間がいなくたって地球は氷河期と間氷期を繰り返していくに決まっているのです。 言うまでもなく「安心・安全」を求めるというのは、「危険や冒険を避けたい」という願望と強く結びついています。それは究極的には、動物園の飼育室や新生児の入る保育器のように、人間が徹底的に管理する人工環境の中で、本来自然に生きる動物である我々があらゆる生命の危険や不快から逃れて、何の心配も無く生涯を過ごしたいという、まるで「家畜のような生き方」を意味しています。 こうして、システムに依存し、危険をこわがり、自然から隔離されたいと自ら望む「家畜化されたい人間」がどんどん増えてきています。子供に「虐め」に立ち向かう力を与えることよりも、「虐め」を告発し、「虐めた者」を徹底的に社会から排除しようとするような教育談義や、圧倒的に強いけれどもシステムに従順ではない「外国人横綱」に対するマスコミの攻撃性などにも、このような傾向が強く現われています。 喫煙規制に関しても、「受動喫煙による健康被害」の根拠が薄弱だとなると、すぐに医学的には全く検証されていない「化学物質過敏症」や強度の喘息患者などの例を持ち出してくるなどというのも、同じような思考回路から生み出されているのです。 このウェブサイトで連載されている信州煙仙人氏の「ポケットに煙草(2)―新しい道徳の誕生―」(http://www.pipeclub-jpn.org/column/column_01_detail_08_02.html)を興味深く読みました。 ニーチェが『道徳の系譜』や『善悪の彼岸』で書いたように、「新しい道徳」とは人々のルサンチマン(怨恨・怨念)から生み出されてくるものなのです。 確かに、あらゆる文明は人間の深い病の表現であると言えますし、結局のところ理想的な文明システムなどというものはいつの時代にも存在しません。我々が求めるべきなのは、完全なシステムなどではなく、動物的な衝動に揺り動かされる人間の内なる「自然」と、全く人間のコントロールを受け付けない外的な「自然」との中間に中途半端にぶら下がっているだけの「決定的に不完全なシステム」としての文明の中で、いかにして自由に考え、自立して生き抜いて行くことができるのかということなのです。新たな「暗黒の中世」が到来したかのような現代世界の状況を見ながら、私が考えているのはそんなことです。 ずっと連載を続けながら、言いたかったことの一部を書いてみましたので、気を取り直して次回はまた喫煙問題に話を戻していくことにしましょう。 室井尚(むろい ひさし):横浜国立大学教授、情報哲学者 |
2007.10.15 |