紫煙を楽しむ
異文化への寛容性(その2) |
前回、たばこを吸う人と吸わない人との間の異文化の問題も含めて、「異文化への寛容性」の重要性について述べましたが、今回は、それを少しだけ学問的に解説したいと思います。 「異文化への寛容性」や「異文化理解」は、人類にとって、永遠のテーマであり、文系学問から理系学問までの学際的な幅広さが求められますので、大変多くの文献資料がありますが、筆者としては、『異文化への理解』(著者代表 森亘 東京大学公開講座46 東京大学出版会 1988年)を拠り所としています。 ともすると、我々は、たばこを吸うか吸わないかとか、愛煙家対嫌煙家というように、たばこにだけ焦点を当てて考えがちなので、今回は、「異文化理解」という観点から、冷静に一般論を考察した上で、たばこ問題に戻りたいと思います。 前記の文献では、生憎、たばこの問題については全く触れられていませんが、異文化についての含蓄のある多くの考察が行われていますので、以下にご紹介します。 先ず、『開講にあたって』において、企画委員長・教育学部長(当時)の稲垣忠彦氏は、「異文化と申しますと、とかく国際間のことというふうに考えられがちでございますが、それだけではなくて、国内における異文化、すなわち世代間の異文化、地域による文化の違い、言葉の違い、あるいは民族の違いなど、国内の異文化問題も含めて異文化という問題を考えることにしました。」と挨拶し、国際的にも国内的にも異文化理解の重要性があることが強調されました。 また、『文化と理解』において、教養学部助教授(当時)の船曵建夫氏は、「このように文化あるいは文化的要素というのは、その影響・分布の外線に行きますと、他の文化、文化的要素と重なり合っている。それが本来の姿だろうと思います。(中略) 二つの異なる文化がある。それが重なり合うというのではなくて衝突というような非常に先鋭な形で出会う、又はお互いに対立しながら重なり合わず隣接して存在するというのはどうして起きるのか。それは二つの原因で起きると思います。一つは、重なりというのが消されてその外側が切り取られるときです。(中略) 排除するとか抹殺するという形で線を引くことは文化の持つ本来的な性格に反するものであります。(中略) もう一つの原因は、大航海時代のように、文化が持っている伝播の速度よりもはるかに速い形で海の上を船で渡っていってしまったので、重なり合っていない文化が出会ってしまった。」と述べ、文化における重なり合い(境界領域)の重要性が強調されました。 以上のことから、筆者としては、ある文化(文化A)とある文化(文化B)の重なり合いが重要であり、長い歴史のあるたばこにおいては、たばこを吸う文化と吸わない文化における重なり合いすなわち、吸わない人の立場を理解する喫煙者及び吸う人の立場を理解する非喫煙者というような構図(分煙)が重要になってくると思いますし、たばこを排除するとか抹殺するという形で、拙速で強引に線を引くことは、文化の持つ本来的な性格に反するものです。排除とか抹殺ではなく、「文化の重なり合い」こそ、「異文化への寛容性」に繋がるものと考えます。 歴史的には、酒、たばこのような嗜好品は、宗教行事や医薬品として用いられてきた時代もありましたが、閉塞感の強い現代社会だからこそ、嗜好品が、社交場におけるコミュニケーションのために、あるいは、個人のストレス軽減のために、価値のあるツールとして存在意義が出てくるように思われますし、そこには、嗜好品に関連した文化の多様性や異文化への寛容性が重視されなければなりません。 2008年5月10日に、「世界の一元化に抗して文化に何ができるか」とのテーマで、東京大学大学院情報学環・福武ホールオープニングシンポジウムが開催され、本来、優勝劣敗でない文化には、価値観を相対化させて地域と世界をつなぐ可能性があることなどについて、国際色豊かに議論されました。加速する世界の一元化に抗して、たばこを含めた文化の多様性を訴えていく必要性を益々感じるこの頃です。 |
川原遊酔(かわはらゆうすい) |