紫煙を楽しむ
異文化への寛容性(その3) |
前回、『異文化への理解』(著者代表 森亘 東京大学公開講座46 東京大学出版会 1988年)を拠り所としながら、たばこを吸う人と吸わない人との間の異文化の問題について、「文化の重なり合い」が「異文化への寛容性」に繋がることについて述べましたが、今回は、それを更に深耕して解説したいと思います。 前回ご紹介した船曵建夫氏が示唆しているように、とかく「異文化理解」は、「知る形での異文化理解」になりがちですが、表面的な知識の習得に終わってしまうのでは、「生きる形での異文化理解」としては意味がないと思います。例えば、ポルトガル語を知るというような形での文化の理解というのではなくて、「生きる形での異文化理解」は、いわばそこにある価値観を信じ、ポルトガル文化が持っている枠組を無意識の中で自分のものにするということです。 また、前記文献中の東洋文化研究所助教授(当時)関本照夫氏が述べているように、自分にとって慣れ親しんだものは、そうでないものより優れているという判断と暗黙に結びつく態度のことを、「エスノセントリズム(ethnocentrism)(自民族中心主義)」と呼んでいます。 これは、誰もが無意識的に持っている排外主義ではあるものの、エスノセントリズムを批判するのではなく、人間をより良く理解するために、エスノセントリズムに縛られているという事実認識を出発点として、自分と異なるものにぶつかった時の不快感は、異なるものを拒否して自分の世界に閉じこもる口実にもなれば、異なるものを理解する手がかりにもなるということです。 筆者としては、「文化の重なり合い」が自然な形で大きくなるほど、本来の異文化理解として、好ましいと考えています。しかしながら、「文化の多様性」の観点から改めて考えてみると、それぞれの文化に拘り続けながら、「文化の重なり合い」を拒否する人々つまりエスノセントリズムの人々の存在も無視できないのではないかと思ってしまいます。 「異文化への寛容性」について繰り返し述べてきましたが、最後に、たばこ文化との関連で考察すれば、たばこを吸う文化と吸わない文化における重なり合いすなわち、吸わない人の立場を理解する喫煙者及び吸う人の立場を理解する非喫煙者というような構図(分煙)が広がっていくことが重要ですが、一方では、たばこを吸う文化と吸わない文化が完全に重なり合うことは、ありえないので、過激な嫌煙家を厳しく批判する愛煙家の存在も貴重ではないかと思っています。 |
川原遊酔(かわはらゆうすい) |