紫煙を楽しむ

紫煙を楽しむ

川原遊酔(かわはらゆうすい)の「紫煙を楽しむ」
人生観と医療

筆者は、「人生は何のため?」と問われると、「人生は楽しむため」と答えることにしています。飲酒、喫煙、美食のような嗜好は、もちろんのこと、俳句やドライブなどの趣味、家族サービスやボランティア活動などの個人的な楽しみも含めて、大いに人生を楽しみたいと思っているからです。もちろん、人生を楽しむ過程では、人様にご迷惑をかけないように注意していることは言うまでもありません。

逆説的に言えば、「人生を楽しめなくなったら、人間としては終わりだ」と思っています。ところが、最近の医療現場を観ていると、「延命」が医療の目的のように考えられているので、植物人間化(この用語自体が医学界では差別用語とされつつありますが、本稿では、わかりやすい表現なので、このまま使用します)している患者(意思疎通不可能な植物状態の患者)に対しても、最後まで「延命措置」を施すのが、良い医師ということになっています。

「延命措置」又は「終末期医療」をどこまで施すのかは、極めて決断が困難な問題ではありますが、筆者としては、人生観や死生観が個人ごとに異なる中で、果たして、現状のような延命医療や終末期医療で良いのかということを最近考えるようになりました。

一個の人格としての尊厳を保って死を迎えさせることを「尊厳死」といい、近代医学の延命措置が、死に臨む人の人間性を無視しがちであることへの反省として認識されるようになりつつあります。

以前の本シリーズで、「QOLって何?」というテーマで、筆者の考えを述べましたが、その中で、人間にとって、「生きがい」とか「個人生活全般にわたる満足感」とかが重要だということを強調したところです。したがって、個人の人生観と医療との関係について、もっと医学界や言論界において議論すべき時期に来ているのではないかと思っています。

ところで、我が国の裁判所は、人為的に寿命を短縮させる行為(積極的安楽死)については、正当化されうる可能性はあるものの、極めて例外的なケース以外は認められないという見解を取っています。すなわち、正当化される条件として、(1)耐え難い肉体的苦痛、(2)死が避けられない末期状態、(3)患者の意思表示、(4)代替手段がない、のすべてを満たす必要があるという判例があります。一方、諸外国では、いくつかの厳格な条件をクリアすれば、患者の意思による積極的安楽死を認め、そのような行為を行った医師の刑事責任を問わないという法制度(安楽死法)を持つ国もあります。最近、我が国でも「尊厳死」を制度化したり、予後不良の患者において心肺停止時の蘇生術を行わないことを事前に患者と話し合っておくことなどが検討されるようにはなってきました。ただ、「尊厳死」は、非常にデリケートな問題であり、法制化に積極的な動きもありますが、一方では、時期尚早との意見も出されている状況です。

多分、植物人間化しても最後まで生きながらえたいと思っている人(家族)もいるかもしれませんが、筆者の美学としては、人間として回復しない状況になれば、好きな酒やたばこを嗜めなくなるのは明らかなので、「尊厳死」を選びたいと思っています。ただ、未だ「尊厳死」の手続きは取っていませんが。

最近、生病老死が暮らしの中からみえにくくなり、多くの場合、死に場所が病院になっている中で、尊厳ある死を迎えたいと切実に願っている人も多いと言われていますが、いずれにせよ、我が国において、個人の人生観と医療との関係について、もっと医学界や言論界において真剣に議論すべきだと痛感するこの頃です。

(参考文献)

  1. 標準公衆衛生・社会医学 岡崎勲ほか編 医学書院 2006年
  2. 文化としての生と死 立川昭二 日本評論社 2006年
  3. 「尊厳死」に尊厳はあるかーある呼吸器外し事件から 中島みち 岩波新書 2007年
川原遊酔(かわはらゆうすい)