禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムにもの申す

文学者 小谷野敦の禁煙ファシズム闘争記

 少しは、「よくない喫煙者」の話でもしたいのだが、禁煙ファシズムの動きが次から次へと出て、しかも新聞が後押しをするものだから、そうもいかない。

本来は、政府の動きを批判したり、社会の趨勢に疑問を投げかけたりするのが、近代ジャーナリズムの役割だったはずだが、今や日本の新聞は、今では、かつての戦時体制の時と同じように、足並み揃えて厚生労働省や日本医師会が推し進める禁煙ファシズムを後押ししている。

しばしば私は、禁煙措置について質問すると「世間の流れで」とか「社会全体が禁煙に向かっている」などと説明されるが、こういう人たちは、先進各国が植民地獲得競争をしていた時にも、かつての十五年戦争の時にも、同じように「世界全体の流れで」などと言っていた人種なのだろうなと思う。

特にひどかったのは、今年一月七日の朝日新聞社説である。これについては、評論家の宮崎哲弥氏が、『週刊プレイボーイ』の連載で痛罵しているので、引用したい。

それでは次の文章をご覧ください。
「健やかにすごしたい。新しい年へのそんな願いは、早々と裏切られた。喫煙率を下げる数値目標が、またしても撤回されてしまったのだ。たばこ対策は、国民の健康を守るうえで最優先であるはずだ。とうてい納得がいかない」「禁煙を進めるためには、まず政府がはっきりと決意を示すことだ。たばこの大幅な値上げも欠かせない」「最大の眼目は喫煙率を下げることだった。たばこをやめれば、心臓病やがん、脳卒中、胃かいようなどを減らせる。しかも、まわりの人の健康を損ねることも防ぐことができる」「たばこをやめて国民が健康になれば、医療費は減る」

この一文はあからさまに喫煙の自由を政府の力で縛れと煽動している。「国民の健康」を大義名分として、個々人の自由な活動領域に公権力が触手を延ばすことを積極的に推進する「生−権力」全肯定論である。

ここまで露骨に国家統制を要求するとは、一体どこのファシストの言かと思いきや……。驚くなかれ、リベラル言論の雄、朝日新聞サマの社説なのである(1月7日付朝刊)。昨年の12月26日に厚生労働省部会が喫煙率の数値目標設定の見送りを決めたことを受けての論説だ。

いやしくも朝日の社説子ともあろうものが、知的な世界では常識化しつつあるフーコーの権力論も踏まえずに社論をものするとは……。それとも朝日は所詮「生−権力」を駆使しようとする体制の走狗に過ぎないというわけか。

先程「ファシストの言」といったが、これは誇張でも何でもない。ロバート・N・プロクター『健康帝国ナチス』(草思社)や竹田知弘『ナチスの発明』(彩図社)を一読して欲しい。ナチスほど「国民の健康を守る」のに熱心だった政権はなかった。(後略)

念のために言っておくと、最後に出てくるプロクターは、ナチスのタバコ迫害について、ナチスも正しいことをやった、と述べている。私は宮崎氏同様、そうは思わない。だが、禁煙ファシズムの世界的な広まりの中で、私は、日本とドイツに、ある期待を抱いている。

実際この二国は、禁煙運動における「後進国」と言われている。日本とドイツは、国民が一丸となって戦い、亡国の危機を迎えるという経験をした国だ。第二次大戦の戦勝国には、そういう経験がない。先日、アメリカの大統領候補に擬せられる人物が「アメリカは強くなければならない!」と演説して喝采を浴びる姿を見たが、日本ではこんなことはありえない。「美しい国」と総理が言えば、少なからぬ人がうさん臭さを感じる。これは実に健全なことだ。

実際、宮崎氏をはじめ、まともな人文・社会系の論客で、現在の禁煙ファシズムを支持している人などほとんどいない。にもかかわらず、新聞はそういう人々の意見をほとんど載せないのが現状だ。かつて科学史家の村上陽一郎は嫌煙運動に加わっていたが、村上氏といえども、現在の禁煙ファシズムは異常だと感じているだろうと思う。ぜひ同氏の意見を聞きたいところだ。

さて、今度は「タクシー全面禁煙」である。一昨年の暮れ、禁煙タクシーの導入を会社から断られたタクシー運転手が、国と会社を訴えた裁判の一審の判決が出て、原告敗訴となったが、東京地裁の裁判官は、タクシーは全面禁煙にするのが望ましいと付帯意見を述べた。さらに昨年春には横浜地裁小田原支部で、やはり同様の意見を裁判官が述べ、私はこれを、司法による喫煙者への不当な迫害だとして、当時行っていた国相手の裁判の訴因に組み入れた。

果たして、名古屋で、タクシーを全面禁煙にするという措置がとられ、続いて神奈川県でもそういうことになった。

どうしてそう一足飛びに「全面」になるのか。既に「禁煙タクシー」というものがあり、「分煙」の措置がとられつつあるのに。タバコが嫌な運転手は禁煙タクシーを使い、乗客も選んで乗ればいいだけのことではないか。まさか、あらゆるタクシー運転手が嫌煙家だなどということはあるまい。だいたい、大雨の日でもなければ、客が一服したい時は窓を開ければすむことである。これも、新幹線全面禁煙と同じ、何の意味もない、禁煙運動家による喫煙者迫害である。

これを取り上げたのが、毎日新聞六月五日の朝刊で、二面のほぼ全面を使っている。リードには「しかし、そう簡単にはやめられないのがたばこ」とあるのに、本文は例によって禁煙礼讃だ。

大分県では既にタクシーは全面禁煙になっていると紹介し「利用客からの苦情はほとんどなく、おほめの言葉をいただいている」などという県タクシー協会会長の言葉が引かれている。 私はここで苦情を言っているではないか。もっとも私は大分へ行く用事などないだろうが、もし名古屋へ行くことがあったら、さんざん苦情は言うつもりだが、いくら言っても、新聞はとりあげまい。新聞記事というのは、両論併記が原則なのに、この記事、批判者の意見はまったくとりあげておらず、それだけでも記事として失格である。

しかも、最後に囲みでコメントを寄せているのが、自動車評論家の徳大寺有恒である。「愛煙家」で、自分の車では吸うが、禁煙タクシーとなると話は別で、と肯定的な意見だ。私は、ああ出てきたな徳大寺、と思った。禁煙ファシズムは、自動車会社の後押しを受けているというのが私の「邪推」である。排気ガスをまきちらし、人を直接殺傷するクルマの害から目をそらすためのものだというわけだ。クルマは役にたつから,と言う者がいるが、それなら、「ドライブ」などという、遊びでクルマを使うのはやめたらどうかね。

しかし、自動車の利用は最低限にしましょうなどと言われたら「自動車評論家」としては困るから、ここは何としても禁煙ファシズムに味方してクルマという「(悪)趣味」を守らなければいけない。しかも徳大寺の言うことは変で「運転手さんがたばこが嫌いというのなら、我慢しなければね」と言うのだが、そうではなくて、運転手の嗜好と無関係に全部禁煙にする、運転手にも喫煙させないというのが今回の措置なのだから、話がずれている。

たとえば「歩きたばこに課金」にしても、要するに自家用車に乗っていれば吸い放題、歩いている弱者だけが割りを食うのだ。世の中の人みなが自家用車を乗り回すわけではないのだよ。社会の上層部にいる、運転手つきの自家用車を使うような者は、愛煙家であっても、その中で吸えばいいから、歩きたばこ課金など関係ないのだ。

そもそもタクシーなどというものが、名古屋のように地下鉄もある都市で、どういう人種が使うか、考えてみるがいい。老人や病人を運ぶため、というなら分かる。しかし、深夜まで遊び歩いたやつが帰るためにタクシーに乗る、金のあるやつらが、地下鉄でもことたりる移動にタクシーを使う。もし本当に必要不可欠な時にしか人がタクシーを使わなくなったら、タクシー会社の一つや二つ、倒産するだろう。

そうやって大気を汚染して回るタクシーが、その中で禁煙にして威張ったりするのが、いかに馬鹿げているか。大都市でタクシーに乗っていて、客がタバコを吸い始めたので窓を開けたら、外の汚染された空気が入ってくる、ということもある。

いったい、タバコとクルマと、どっちが罪が深いか、考えれば分かることだ。
小谷野敦:東京大学非常勤講師
比較文学者
学術博士(東大)
評論家
禁煙ファシズムと戦う会代表
2007.06.27