禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムにもの申す

ポケットに煙草(2)―新しい道徳の誕生―

今朝おきて朝刊を開くと【欽ちゃんマラソン「医学的に非常識」】【愛煙家・66歳・猛暑】【禁煙学会が待った】という見出しの記事が目に入った。

今日から明日にかけて日本テレビ系の恒例のチャリティー番組「24時間テレビ『愛は地球を救う』」で欽ちゃんが走るのだ。ちょっと気になったので、本文に入る前に少し触れておきたい。要旨はこうである。(…は省略部分)

≪禁煙の普及を進める医師らでつくる「日本禁煙学会」(作田学理事長)は…愛煙家のタレント萩本欽一さんが70キロのマラソンに挑むことについて、「医学的に見て極めて非常識」とする見解を日本テレビを含む報道各社に送った。…「感動と生きる勇気を与えたいという気持ちは理解できる」としたうえで、「自らが禁煙して全国民に禁煙のメッセージを送ることで欽ちゃんの気持ちはじゅうぶんに生かすことができる」とし、萩本さんに禁煙も勧めている。≫(2007年8月18日朝日新聞朝刊社会面)

たしかに、「66歳という年齢に加えて萩本さんがヘビースモーカーであること、連日の記録的な猛暑」(同)を考えれば「医学的に見て極めて非常識」なのであろう、が、どこか変だ。

だいぶ前のことになるが、友人にこんなことがあった。彼女は両手が不自由なので筆を歯で噛んで油絵を描く。そのため前歯が悪くなってしまったので「先生、絵を描きたいので歯を治してください」と歯医者さんに相談に行った。

ところが「絵を描くのをやめなさい」といわれて帰ってきたのである。彼女はあきれて笑っていたが、お医者さんは時々面白いことをいうものだと僕も笑ってしまった。

「医学的に見て極めて非常識」なのであろうが、常識を持ち出すまでもなく、歯の健康のためには絵をやめたほうがいい、そんなことは彼女が一番わかっている。

それにもかかわらず、絵を描くことが彼女の生きがいであるから歯を治そうとしたのだ。

「非常識」なことを「それにもかかわらず」することが愚かな行ないだとすれば、人間なんて愚か者ばかりだ。でも人間の生きがいや喜びやワクワクは、そういうところにあるのではなかろうか。(彼女は別のいいお医者さんのところに通いはじめた。)

欽ちゃんだって70キロも走破する自信なんてそれほどないだろう。ドクターストップがかかるから死ぬことはないだろうが、少しは命を縮めるかもしれない、くらいの覚悟はしているだろう。

それにもかかわらず、このチャリティーに挑戦するのだ。そう、「それにもかかわらず」だからこそみんなに「感動と生きる勇気」を与えるのではなかろうか?

欽ちゃんが自分の健康を心配して「自らが禁煙して全国民に禁煙のメッセージを送ること」をしてみせたところで「感動と生きる勇気」なんか誰も感じないだろう(禁煙活動家は別かもしれない)。

「見解」の全文を知らないので正確なところはわからないが、「日本禁煙学会」はいったい誰に何を忠告しているつもりなのだろうか? 欽ちゃんに、それともテレビ局の企画者に?

いずれにしても、身体を張っている欽ちゃんには失礼である。

愚かなことをしているわけではない。

先ほどの歯医者さんも「禁煙の普及を進める医師ら」も、いったい「人生の質(QOL)」をどう考えているのだろう。QOLに配慮することはいまやお医者さんたちの専売特許になったのではなかったか? それは、入院患者の生活、終末医療、安楽死の問題だけではないはずだ。

誰しも健康で長生きしたいと思う。そして、医者の第一の使命(目的)は命を救うこと、病気を治すこと、病気を予防し健康を維持させることであろう。しかし、患者の側からすれば健康で長生きすることが人生の目的や生きがいではない。

健康になりたいと願うのは、それがいろいろなことを可能にしてくれるからである。仕事を成し遂げたたり、恋を成就したり、家庭を支えたり、子どもを育てあげたり、といろいろな生きがいを可能にしてくれるからである。「幸福」の内容は人によって異なるが、それぞれの「幸福」を可能にしてくれる条件のひとつが「健康」というものだろう。

健康であることが幸福なのではなく、幸福になるために健康でありたいと願うのだ。

プロローグが長くなってしまって恐縮だが、これからが本文。
「タバコの害」が唱えられてからだいぶ時がたつが、この間に僕らは「新しい道徳の誕生」ともいうべき面白い社会現象に立ち会っている、と僕は思うのである。
それはこんなふうにはじまったと記憶している。
―タバコはよくありませんよ。
―どうしてですか?
―健康に悪いので、よしたほうがいいですよ。
―ご親切に、ありがとうございます。

健康を心配してくれるのはやさしい心遣い、親切な忠告、ご指導である。僕のかかりつけの女医さんもそうだった。ありがたく拝聴したが、僕はタバコをやめなかった。やめられなかったのではない。はなからやめようとは思わなかったのだ。タバコは僕の生活に深く浸透している(QOL?)のだから、よほどのことがなければやめはしない。

「タバコはやめません」とはっきり申し上げたら、それからは一度も禁煙を勧められていない。


さて、この「禁煙の勧め」は「あなたが健康でありたいと望むならば、あなたはタバコをやめたほうがいいですよ」ということだ。その妥当性は別にして、ここまではまだいいのである。僕はこれを「禁煙運動の第一段階」と呼んでいる。

ところがそのうち雲行きが怪しくなってきた。当初は「分煙」だったものが、「全面禁煙」の飲食店が現われ、「全車両禁煙」の列車が登場し、「敷地内全面禁煙」の職場が…といった具合で、喫煙者は「排除」されはじめたのだ。

世の中は「分煙」を通り越して「排煙」への道をまっしぐらに進みだしたのである。「排煙」の店には二度と行かないことで対処しているが、「排煙」の列車や「排煙」の職場は拒否することができない(僕の場合は半日ぐらいタバコをやらなくてもまったく平気なので困ることはないが)。


始末に悪いのは、条例で路上喫煙を禁止し違反者から罰金を徴収したりする自治体まで現われたことだ。
―どのような根拠でそうなったのですか?
―条例でそう決められていますから。
―では僕はどういうことになりますか?
―違反したので罰金をいただきます。

文句を言っても「法的根拠」を持ち出されるだけである。こちらが知りたいのは「どのような根拠」でその「法」が決まったのかということで、それがわかれば反論も可能(と僕は思うので、機会をみて試みたい)なのだが、取り締まる者にはそんなことはどうでもいい、「決まった」という事実だけでじゅうぶんなのである。


この「排煙の強要」は「法で決まっているから、あなたはタバコをやってはいけません」ということで、僕はこれを「禁煙運動の第二段階」と呼ぶ。「悪法も法なり」といって毒杯をあおいだソクラテスではないので、僕には承服しがたいが、法の内容と機能を理解することならできる。路上喫煙が禁じられていること、いったん法律や条令で決まったからにはそれを守らなければその行為は形式的に「違反」であること、それにともなって「罰金」という制裁もありうること。それは理解できる。

ところがしだいに、「違反者」は「法を守らない者」であり、いかにも社会の秩序を無視する「悪人」であるかのような位置づけになってきてしまうのが世の習いだ。「あのひとは社会のルールも守れない人なのですよ」というわけである。

さてこのあたりから、世の中の一部の人たちは、法律や条例がなくとも嫌煙の風潮を強力な後ろ盾として、喫煙者をあたかも「悪い人」であるかのように非難したり、あるいは「人間として低級」であるかのように軽蔑したりするようになってきた、と思うのである。おそらくそういう人たちは、非難したり軽蔑したりできる自分のほうは「善い人」であり「人間として高級」である、そんなふうにひそかに思っているのだろう(というのは考えすぎ?)。


とすれば、いまや禁煙が人間性をはかるひとつの尺度になってきたといえよう。

カントは道徳の命令は条件付きの命令ではなく無条件の命令であるといったが、それにならえば、この「尺度としての禁煙」は「タバコをやってはいけない」という無条件の命令であり、「道徳」になったということであろう。僕はこれを「禁煙至上命令」と名づけ、「禁煙運動の第三段階」と呼んでいる。

個人情報保護法も、国旗国歌法もいったん法律として決まると独り歩きをはじめた。健康増進法もついに独り歩きしはじめた。「分煙」や「禁煙」は「排煙」となり、「法」となり、ついには「道徳」となった。

「あなたが健康でありたいと望むならば、あなたはタバコをやめよ」という条件付きの「禁煙の勧め」が、ついには「タバコをやめよ」という無条件の「禁煙の命令」となったのである。

こうして僕はいつの間にか白い眼で見られ、後ろ指を差される人物、低級な人間になってしまったようなのである。


「それにもかかわらず」僕は愚かにもタバコを楽しみながら、この社会現象を面白がって眺めている。ニーチェはわれわれ現代人には道徳の発生に対する根本的な洞察が困難になっているといっているが、この社会現象を目にしていると、僕には「新しい道徳の誕生」の現場に立ち会っていると思えて、何か発見できるのではないかと実に興味津々なのである。

(翌日のテレビを見た。タイムオーバーながら欽ちゃんは生還した。ヘビースモーカーにもかかわらず「医学的に見て極めて非常識」なことをみごと成し遂げたことに、喫煙家は「感動と生きる勇気」を与えられた、というべきかもしれない。

タイムオーバーしたのは左足の具合のせいで、肺機能のせいではなかったのだから。

欽ちゃんがヘビースモーカーであることを全国に知らしめてくれた「日本禁煙学会」に、僕は感謝したい。)
信州煙仙人(哲学者)
2007/08/24