禁煙ファシズムにもの申す
ポケットに煙草(3)―寛容について― |
「俺は横綱だ」といった傍若無人の振る舞いで風を切っていた朝青龍が不祥事でシッポを巻いてモンゴルにトンズラした。 親方の説明はまるで他人事のようだ、と思ったら、今度は、相撲部屋で「かわいがり」という名の暴力でひとりの若者が死んだ。 説明だか言い逃れだかの親方の弁も一種のトンズラだ。相撲協会理事長の説明も不十分だ、と思ったら今度は、亀田父子のあのリング上での反則、いったいあれはなんだ? 「昔からあったことだよ」という人もいるだろうが、それにしても謝罪の弁が一言もない、責任もとらない、言い逃れをする・・・この背景には特有の何かがあるように思われる。スポーツ界では何かが変質しているように見える(一部のスポーツ界ではあろうが)。 変質したのはスポーツ界だけなのだろうか? 「俺は勝ち組だ」といった態度で風を切って歩ける社会でも、何かが変質している。 「勝つ」ことが至上の価値となり、「やさしさ」や「謙虚さ」、「謝ること」や「許すこと」の価値が見失われている、少なくとも下落しているように見える。 かつては「強い者は弱い者にやさしくしなさい」とよくいわれたものだが、いつの間にか「やさしさ」は消えてしまったようだ。 いったいどこへ行ってしまったのだろうか? どんな世界でも「強い者」と「弱い者」がいるだろう。 だからこそ人間は「やさしさ」という潤滑油をはたらかせてきたのではないか? このギスギスした世の中、トゲトゲとした心のありようを何とかできないものかと思うのである。と思っていたら、変な形で「やさしさ」が表に現われてきてびっくりした。 先日、踏み切りの遮断機が開くのを待っていると、とてもやさしい声が聞こえてきた。ちょっと気持ちがわるいくらいなので振り向くと、ご婦人が胸に抱えたペットに猫なで声で話しかけている。 ペットに「やさしく」話しかけるのは、ちょっと哀しいが、まあ悪いことではない。でも、ペットのお墓、ペットの服、ペットのメイク、ペットの肥満・・・こういったものは度がすぎると虐待になるのではなかろうか? もし自然の動物の命はかえりみず、自分の飼っている動物だけにやさしくするのであったとしたら、変じゃないだろうか? そう考えてみると、その「かわいがり」の背後に飼い主のエゴが垣間見えてくる。しかしこれは、まあいいとしよう。 ところが、最近コマーシャルなどで「環境にやさしい」とか「地球にやさしい」とかさかんにいっているのには辟易する。 「この製品は環境にやさしい」とのたまっているのである。 擬人的表現であることはわかるが、人間が「環境にやさしい」というのでさえ抵抗を感じる僕にとっては、「製品」が「環境」に「やさしい」などというのはなんともやりきれない。 というのは、そんな言い回しが世の中に蔓延しつづけているなかで、「誰かが誰かにやさしい」という意味の本来の「やさしさ」が掻き消えてしまったような気がするからである。 「勝ち組」「負け組」などという言い方を公然と容認するような競争社会、そして格差が広がったとなると今度は「再チャレンジ」などといって「負け組」をさらに競争へと駆り立てる社会、一言でいえば「勝つ」ことが至上の価値となっている社会では、本来の「やさしさ」なんてもはや死語なのかもしれない。 声高に競争を容認する社会の根底にあるのはギラギラしたエゴイズムなのだから。 僕はエゴを否定するつもりは毛頭ない。エゴは大切なものだ。 「分煙」という美名のもとに、実際は屋外へと、敷地外へと煙草吸いを追い出す「排煙」の野蛮な風潮にも、僕は何かの変質を感じ取る。 「健康」を至上の価値とし、それに反するものは排除する。 しかも、車は排除しないでタバコだけを排除する。明らかにおかしいではないか? ひとつの価値基準ですべてを測るということほど偏狭なものはない。 それを、ひとつの価値だけで測って裁こうというのは、極端な潔癖主義、偏狭な勧善懲悪主義、野蛮な原理主義だ。 本来の「やさしさ」というものは人間の持ちうる立派な徳だ。 ところで、その「やさしさ」の徳の中にはもっともっと大きな「人間力」を要する徳がある。 「寛容」という徳だ。 「やさしさ」という原石を磨きに磨きあげたような徳だ。 「やさしさ」が見えなくなった社会では、当然のことながら「寛容」などめっきり影が薄くなってきてしまった。 僕には、権力をかさにきて横柄な態度をされたり、根拠なき権威を持ち出して不当な要求をされたりすると、血中のアドレナリンが沸騰しすぎて爆発してしまうという危ない傾向がある。 ところが、どうでもいい些細なことにまで沸騰してしまうことがある。 これはまったくいけない。 事が過ぎ去ってから、ああ、自分は人間ができていないなあと反省し、「寛容でありたい」とつくづく思う、なんてことを繰り返している。 超俗の仙人ならば大きなことにも小さなことにも恬淡としていられるのであろうが、自称「仙人」はまだまだ修行が足りない、未熟なのである。 かの久米の仙人は、神通力で空を飛んでいるとき吉野川で衣を洗う女の白いふくらはぎを見て不覚にも墜落したそうだが、僕はこの話になんともいえない感動をおぼえる。 なぜだろう? それはおそらく、仙人の中に「人間の姿」を発見するからだろう。 僕は仙人を軽蔑しようとは思わない。 むしろ受け入れるのだ。 そしてなぜか、僕自身のこの心のありように「寛容さ」を感じてしまうのである。 坂口安吾は、墜落する久米の仙人に「人間の姿」を見て、「久米の仙人の墜落自体が美というものではないか」(『教祖の文学』)という。 「堕落(だらく)」を人間の根本の姿としてとらえ、人間をまるごと肯定するのだ(『堕落論』)。そこには、人間を断罪する価値基準はない。 人間の愚かさや堕落した姿を見る安吾のまなざしはやさしい。 この「やさしさ」には「寛容さ」が溢れていると思う。 もしかしたら、「寛容」であることと「人間の姿」を見ることとはどこかでつながっているのではなかろうか。 「寛容」であることは人間のすぐれた徳であると思う。 人間ほど攻撃的で残酷で復讐心のある動物はいない。 だからこそ、「寛容」という徳が生まれたのであろう。 しかし、「寛容であれ!」という道徳は、何でもかんでも「受け入れろ」「許せ」といっているわけではない。 それはある程度まで(これを明確にすることはできないが)、他人の失敗を、他人の弱さを、他人の愚かさを、「受け入れる」ということ、「許す」ということであろう。 「寛容であれ!」という道徳は、エゴイズムを前提としながら、しかもそれを乗り超えることを要求していると思う。 「寛容」であることはむずかしい。 しかし、〈寛容でありたいと思いつつ寛容でない〉のと、〈ただ単純に寛容でない〉のとではまったく違う、雲泥の差だ。 「正義の人」「勧善懲悪の人」というのは〈単純に寛容でない人〉ではなかろうか? 「寛容な人」というのは〈なかなか寛容になれなくても寛容でありたいと思っている人〉ではなかろうか? 心を広(寛)くして他人との違いを受け入(容)れる、これが「寛容」というものであろう。あるいは、「寛容」とは、何かを「人間として許せない」というのではなく、何かを「人間なんだから許す」というような精神のありよう(姿勢)のこと、であろう。(「許す」というのは少しえらそうないい方で、「受容する」といった方がいいかもしれない。しかし何もかも「甘受する」ということではない。) 僕はタバコに関しても今の世の中はもっと「寛容な社会」になってほしいと思う。 いつでもどこでもタバコを吸わせろ、といいたいのではない。僕のエゴを何としても貫くというのではない。 他人に迷惑をかけようとは思わない。 ただ「寛容であってほしい」と思うだけである。 タバコを嗜むことは、「正義の人」である「排煙家」にとっては愚かな行為かもしれないが、そんなに愚かなことだろうか? 僕は「排煙家」に訊ねたい、「あなたは他のことで愚かなことはしていないのですか?」「ペットにやさしすぎて肥満にしてませんか?」「あなたの子どもを“かわいがり”すぎていませんか?」・・・と。 愚かなことをする権利を「愚行権」(プライベートな空間では僕らは愚行を繰り返している)というそうだが、僕は喫煙を「権利」だなんていおうとしているわけではない。 「寛容であってほしい」と思っているだけである。 信州煙仙人(哲学者) |
2007/10/23 |