禁煙ファシズムにもの申す
文学者 小谷野敦の禁煙ファシズム裁判記 2 |
<承前>
その後、厚生労働省の基準値なるものは、ガイドラインとして公表されていることが分かった。 http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/05/h0509-2.html これは私の勘違いであり、『月刊宝島』には、虚偽だとする文章が載っているので訂正する。しかし、九学会連合委員会が「健康増進法違反」と書いているのは、やはり間違いである。 ガイドラインは、法として公布されたものではないのだから、それを基準にそんなことは言えないのである。しかもこのガイドラインには、職場での職員に関する「受動喫煙」防止のものであって、また「本ガイドラインは、空間分煙を中心に対策を講ずる場合を想定したものである」とあるのだから、そんなものを使って全面禁煙を主張すべき筋合いのものではない。 それどころか、「喫煙室又は喫煙コーナー(以下、「喫煙室等」という。)の設置に当たっては、可能な限り、喫煙室を設置することとし、喫煙室の設置が困難である場合には、喫煙コーナーを設置すること。」「非喫煙者は、喫煙者が喫煙室等で喫煙することに対して理解することが望まれること。」等の文言があって、九学会連合委員会の提言そのものが、このガイドラインに反するものなのである。 私がタバコ関係で起こした裁判について、新聞はまったく報道しなかったが、今回、敗訴を受けて、サンケイ新聞は、「裁判所が新幹線全面禁煙にお墨つき」などという見出しをつけて報道した。私への取材はしていない。 おかげで、判決文が届くのに二日かかったせいもあり、私は自分の敗訴をニュースで知ることになった。取材もせずに報道するのも如何かと思うが、「お墨つき」とは、札付きの禁煙ファシスト新聞のサンケイならではの嫌らしい表現である。 だが、大企業だの国だのが悪辣で、司法が行政寄りなのは今に始まったことではない。最も許しがたいのは新聞である。 ただでさえ、日本の新聞は部数が多く、大新聞の休刊日が同じなど談合・総動員体制が強いのだが、それが、健康増進法施行以後は、私や山崎正和、養老孟司、斎藤貴男などの禁煙ファシズム批判に類する言説をまったくといって言いほど載せなくなり、言論統制を敷いている。 一般に、読売と産経は保守、朝日と毎日は革新(リベラル)とされているが、禁煙ファシズムについてはほぼ足並みを揃え、禁煙派の記者によるコラム、禁煙派に都合のいい記事ばかりが載る。 それについて不快だったのは、「毎日新聞」十二月二十七日の論壇時評で、三つの論壇論文を上げる短い文章を書いた、ジャーナリストで恵泉女学園大学教授の武田徹の文章である。武田は、『世界』一月号の、禁煙派・伊佐山芳郎の「生き残りを謀るたばこ会社」と、『中央公論』一月号の、斎藤貴男による「禁煙ファシズムに物申す!」を取り上げている。 なお、斎藤は、路上喫煙は悪いのは分かっている、と書いているが、私はそうは思っていない。人ごみでの喫煙は、路上であろうがどこであろうが控えるべきだろうが、人のまばらな場所や、深夜の路上喫煙が悪いとは少しも思っていない。 話を戻すと、武田は、あたかもこのようなやり方で、「中立」を装っているが、現在の新聞では、真っ向から禁煙ファシズムを指弾するような論者の文章が載ることはなく、また現実に、新幹線の全面禁煙などという過剰防衛ともいうべき措置がとられている現状で、中立を装うことは、要するに「なぜ戦争に反対しなかったの」と同じで、反対しないことで禁煙ファシズムに加担することになるのだ。 とはいえ、奇妙なのはその文章そのもので、確かに武田は「確かに実生活の複雑さを思えば喫煙だけ抽出した有害性の検証は困難」と書いているが、そこからおかしな方向へ話は転じて、「たとえば喫煙を危険をおかしかねない愚行と仮定した上で『愚行権』がどこまで許容されるべきかを考察して来た倫理学を応用する等の議論は可能だったはず」で、「その種の論文が不在な点に最近の言論界の、賛否両論を建設的に総合する意欲の乏しさを感じてしまう」などとお茶を濁すのだが、だいたい禁煙ファシズム論争などというものは、起こっていないに等しい。 ファシストどもは、なぜ自動車が自由気ままに走行を許されるのか、またなぜ新聞は、ドライブなどという、遊びで凶器を走らせるような行為を批判しないのか、という私の批判に一度たりとも答えたことはないのだ。しかも、禁煙ファシズムは、愚行権などという素朴なところで行われているのではなく、「受動喫煙」という、他人に害を与えるという禁煙派の主張から発しているのだから、武田の議論はまったくの筋違いである。 この程度に言っておかないと、現在では新聞に意見を書かせてもらえないらしい。在野のジャーナリストなら、生活のために身売りするのも仕方ないが、大学に職を得ていてこういう提灯持ち評論を書くのでは、ジャーナリスト失格である。 もう一つ驚いたのは、禁煙ファシスト川端裕人が、『婦人公論』十月七日号で、精神病理学者の芹沢一也と対談して、過剰防犯社会に対して危惧を表明していることで、過剰防犯に危惧を抱きながら、過剰禁煙に危惧を抱かないというのは、まったく、川端の頭の中で、タバコが登場すると思考が停止するのだとしか考えようがない。 何ごとであれ、「過剰」なのはよろしくないと私は考えている。もっとも、「過剰」の基準が人によって違うのは事実だが、新幹線を全面禁煙にするなどというのは、常識からいえば過剰である。 小谷野敦:東京大学非常勤講師 比較文学者 学術博士(東大) 評論家 禁煙ファシズムと戦う会代表 |
2008/02/04 |