禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムにもの申す

公認された?余りにもひどい喫煙者の差別

5月末のある日、ショッキングな光景を目にした。とある学校の近くを通った時のこと、校庭のフェンスの外の空き地で、背広を着た一人の男性が、背中を丸めるようにしてたばこを喫っていた。まるで人目をはばかるようにして!何か悪いことでもしているかのように!やがて男性はたばこを喫い終わり大きく深呼吸をして、校庭の中に消えた。

 私の心は、何とも言いようのない暗い気持ちと、押さえ切れない憤りがこみ上げてきた。男性の姿には哀れみが漂っていた。もしこの光景を奥さん、子供さんが見たらどのように感じるだろうか?きっと家族のために一生懸命働いているお父さんが、つかの間の息抜きに、好きなたばこを喫うだけで、この様な恥ずかしい姿をさらし、ひどい差別をされなければならないのか「お父さん可愛そう」と、とても悲しむことだろうと思った。

 また6月に入り、孫の運動会があったので応援に駆けつけた、天気も良く校庭には万国旗がはためき、児童達のはつらつとした団体演技や、徒競走などが行われ、父兄も盛んに応援をし、昔から変わらぬ和やかな光景に、一時の心の安らぎを感じていた。

 演技の合間に、目を校庭から道路の方に移すと、5〜6人のお父さん達が携帯吸い殻入れを持ちたばこを喫っている光景が、目に飛び込んできた。その姿には何とも云えない寂しさが漂っていた、校庭からたばこを好きなお父さんが閉め出されていたのだ。何時から、この様なことが当たり前の世の中になったのかと情けなく思えた。

せめて校庭の一角に喫煙コーナーを設けることさえも許されない、喫煙者に対する公認?された差別の風潮が、さも当たり前のように無限に広がっているような気がした。

 喫煙に対する社会の流れは、「健康日本21」が、2000年3月に旧厚生省事務次官通知によりスタートした。その後「健康日本21」は法的裏付けがないとの指摘があり、「健康増進法」が2003年に施行された。たばこに関しては、喫煙者率の低減方針から、一歩踏み込んだ受動喫煙の防止も打ち出され、それを受けて各地方自治体では、公立学校の校舎での全面禁煙の規制が広まり、更にそれがエスカレートして、学校敷地内にも拡大し、前に示したような現象を引き起しているのだ。
そこまでして、喫煙者の人格を否定するような措置を講ずる理由は何だろうか、新聞記事などで調べてみた結果、たばこ煙による「受動喫煙」の害と、健康教育の場である学校は、全面禁煙にした上で指導すべきとの建前のようだ。

 ここで疑問に思うことは、学校での「受動喫煙」の害とは、どのようなことなのだろうか、まさか児童生徒の前でたばこを喫って、煙を吹きかけているわけでもあるまい、臭いがしただけで「害」があるのか、常識的に見てもおかしな理屈ではないか。「教育者の立場」の理由も然り、先生が休憩時間等に喫煙場所でたばこを喫っている姿は、教育上それ程までにマイナスなのか、それでは喫煙規制の無かった時代に教育を受けた人たちは、どのような影響を受け、どのように育ち、どのような人物になったのだろうか、みんな立派な社会人とした活躍しているではないか。

学校はもっと大事なことを教える場だ、「人命の尊さ」、「人を思いやる優しい心の育成」、「誰にも平等に、差別はしてはならないこと」、「ルールを守ること」等々いっぱいある。皮肉った言い方をすれば、たばこを吸う人を校庭から閉め出すことは、正に「差別」であることを教える、生きた教材だと言いたいような気がする。

 ここで、ハッキリ主張しておきたいことは、健康増進法施行以来、「受動喫煙の害」を殊更大きく取り上げ、目先の施策に汲々する余り「行政」、「政治家」はもとより「マスコミ」に至るまで、まるで取り憑かれたように、たばこバッシングの連呼合唱に及び、喫煙場所を規制すれば、問題が解決するかのように誤解していることだ。このことが、実は「人格の否定」「差別」の横行を許す風潮へと連鎖していることに目をそむけ、本当に大事にすべきことを見失っていることだ。

今回のような問題も、「受動喫煙」の害、「教育者の立場」の問題(共に屁理屈と思う)と、「人格否定」「差別」の基本的人権に関わる問題と、私たちにとってどちらが大切なのか。答えはハッキリしている。健康増進法を運用する地方自治体は、同法第25条(注1)の趣旨を正しく解釈し、逸脱することなく、常識的なバランス感覚を持って、運用見直しをする勇気が必要と感じる。

注1 健康増進法第25条
学校、体育館、病院、劇場、…(省略)、その他多数の者が利用する施設を管理する者は、これを利用する者について受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう)を防止するための措置を講ずるよう務めなければならない
吉田里志
2008/07/22