禁煙ファシズムにもの申す
年末年始雑感 |
二〇〇八年が暮れようとしている。禁煙ファシズムとの戦いが本格化したのは、二〇〇四年ころだから、戦いは五年目を終えて六年目を迎えようとしているが、まだ光明は見えず、ファシズムは進行するばかりである。 十二月には、たばこの税率引き上げが「濃厚」と報じられたが、一転してなしになり、とりあえずほっとしたところへ、JR東日本が、プラットフォームを全面禁煙にするというニュースで打撃を受けた。ほっとしたというのは、値上げがなくなって良かったというよりも、自民党内に抵抗勢力がいるということが分かったからである。とはいえ、綿貫民輔や小宮山洋子のように、「禁煙派」であることを明らかにする議員はいるが、「反禁煙派」であることを明らかにする議員というのは、まずいない。もしいたら、選挙の時応援演説に駆けつけてもいいくらいだ。私はこう見えても、長年教師をしているから演説は得意である。 そんなことを公言すれば袋だたきに遭うとでも思っているのだろうが、実際には禁煙派などというのは、国民全体のパーセンテージからいえば、三割くらいである。首都圏の私鉄が、軒並みプラットフォームを禁煙にしたのに対して、JRはフォームの片隅ながら喫煙所を残しておいたわけで、とはいえ既に東北・上越・長野新幹線などを禁煙にして、私は裁判を起こしているから、いつでも、JR東日本が「敵」だという意識は持っている。敵がまたやったな、と思う程度である。この敵は、昨年度、八百通近い、全面禁煙を望む投書があったなどと言っているが、それは禁煙団体やら嫌煙派のもので、それくらいあるだろうし、第一禁煙になっていないところへ投書が来るのだから、禁煙にしろと言うほうが多いに決まっているし、仮に新幹線全面禁煙に抗議する声が千通を超えていても、どうせ公表しないだろう。 別に首都圏のJRなど、私はあまり使わないし、使ったとしても五分程度で、タバコを吸わなくても、新幹線が禁煙のため東北・長野・新潟方面へは行けなくなったほどの実害はないが、議論もなく、一方的に禁煙にすること自体が不快なのである。私が提訴した際も、JR東日本は、禁煙は好評であるといった、碌な裏づけのない答弁を出してきただけで、まったく議論の土俵に乗ろうとはしなかった。禁煙ファシズムが不愉快なのは、議論がなされないことが最大の要因である。むろん、以前は行われていたが、この数年、新聞を筆頭に、禁煙ファシズムを批判する声があること自体、隠蔽するようになってしまった。 最近は、新聞を読むのも不愉快で、私はなるべく中のほうを見ないようにしている。禁煙ファシズム記事を見てしまうと不快になるからである。そんな中で、たまたま見つけてしまったのが、「毎日新聞」の澤田克己という記者の囲み記事で、嫌煙派の澤田はオーストリアへ行ってタバコの臭いが気になり、禁煙法が憲法違反だとされて一時的に停止されていることを知ったと書いている。それで、自分が過敏になった、とまで意識しているのだが、「分煙」ではなくて「全面禁煙」にされることによる喫煙者の不快というものを、まったく意識していない記事で、ここまで鈍感な自己中心的な記事が平然と載るという事態が、まあ今さらながら不快だった。 そういえば、「毎日」に連載している中川恵一というガン専門の医師のコラムがあって、私は中川が、養老孟司の弟子だというので期待していたのだが、次第に禁煙ファシスト化していって、まったく失望したものだが、そうでなければ今日び新聞に連載などさせてもらえないということだろう。しかも中川は、断煙しても、そのガン発症危険度が非喫煙者と同じになるまでは二、三十年かかると言っており、それなら、四十過ぎの私などがタバコをやめても、その時には六十、七十代になっており、誰でもガンに罹る年代なのだから、大して意味はない。 ところで、出版不況とかで、今年はだいぶ雑誌の休刊(廃刊)のニュースが相次いだ。新聞に比べると、雑誌の中には、まだ禁煙ファシズム批判の記事を載せてくれるところがあるが、今年廃刊になった『論座』や『月刊現代』は、載せなかったように記憶するから、まあいい気味だと思っている。別に禁煙ファシズムに限らず、このところの総合雑誌は、総合雑誌の目玉とも言うべき「論争」を載せなくなった。『論座』が、赤木智弘の、反発を呼ぶこと必至の「希望は、戦争」を載せて、同じ号で反論を載せたのは、いわば「やらせ論争」である。あとは、政治的な左右の対立からなる「論争」のようなものはあるが、こういうのはまるで年中行事のようなものになってしまい、実はちっとも面白くないのだから、雑誌がつまらなくなり、潰れるのは当然である。 禁煙ファシズム批判に話を戻せば、『文藝春秋』だけは、私の記事も載せてくれたし、養老氏と山崎正和先生の対談も載せた。ところでこれに対して、作田学を会長とする日本禁煙学会が公開質問を行ったのは、昨年の今ごろのことだったが、養老、山崎両氏とも、返答はせず、それきりになった。 ところで、集英社新書の『禁煙バトルロワイヤル』という、喫煙者であるお笑い芸人の太田光と禁煙派医師・奥仲哲弥の対談本を『週刊朝日』で書評した青木るえかは、「喫煙派ハードコアの小谷野敦を出してほしかった」と書いているのだが、禁煙学会はなぜ私に公開質問状を出してこないのだろうか。『文藝春秋』、養老・東大名誉教授、山崎・中教審会長だから出したのだろうか? 二人が相手にしないだろうと思って出したのだろうか? いやむろん、前にも書いたとおり、作田は私に「公開討論」を呼びかけてきたことはある。しかしそんな、どうせ嫌煙派を集めて、吊るし上げにしようという魂胆ミエミエなのは嫌だから、往復書簡形式にしようと言ったら、作田は逃げてしまった。もはや議論ではなくて、雰囲気で押すことしかできないのが、現在の禁煙派なのである。 その太田が、同じ『週刊朝日』で、取材記事の形で「禁煙ブーム」について意見を述べていたが、これがひどいものだった。むろん「禁煙ファシズム」と呼ぶのが正しいのだが、マスコミはこの名称を使いたがらない。太田の言は、まるで喫煙者の禁煙ファシストだ。太田曰く、禁煙に反対している人たちは、たばこを例にとって別のことを言っているのだ、自分がしたいことができないのが嫌だと言っているだけだ、つまりわがままなのだと、ほとんど誹謗に近いことを言うのである。そうではない、きちんと議論がなされないことが問題なのである。 「この話、面倒くさい」などと言いつつのインタビューだったようだが、所詮は保身だろう。どうせ人気藝人なんだから、週刊誌の意見なんて安い仕事は断ればいいのである。実に見下げ果てた奴である。第一、太田ほどの人気藝人に、一介のサラリーマンたちが、休み時間に外へ追い出されて吸わなければならない惨めさが分かるのだろうか。私にしても、東大では屋内で吸うところがないから、休憩時間に外へ出て、まるで不良高校生のようにしゃがみ込んで吸っているのだ。あるいは太田は、電車に乗って、プラットフォームで吸えないとかそういう思いをしているのだろうか。あれだけの人気藝人なんだから、普通に電車なんか使わないだろう。こういう知性を欠いた人間に、禁煙ファシズムについての意見を言わせる、あざといやり口はやめてほしいものだ。 小谷野敦:東京大学非常勤講師 比較文学者 学術博士(東大) 評論家 禁煙ファシズムと戦う会代表 |
2008/12/26 |