禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムにもの申す

書評「禁煙にすればするほど煙たくなるニッポン」(山本直治著、扶桑社新書)

たばこ嫌いの著者が、日本パイプクラブ連盟事務局に自ら売り込んできて、連盟のホームページで、書評で取り上げて欲しいとの依頼があった由で、事務局から短評を依頼された。

さて、著者の山本氏は、ご自身がたばこ嫌いであることを最初から断っている。

「嫌煙権」なるものを振りかざして他人に禁煙を強制するヒトと云うと、視野狭窄で思い込みが激しく、やたらと喫煙者に攻撃的で、人間としての不快度指数120%の人士の姿がすぐに思い浮かぶ。

喫煙者と非喫煙者の現実に可能な分煙を説く山本氏は至って穏当な考えの持ち主であり、評子のようなパイプ愛好家としても受け入れられる方である。山本氏が健全な社会常識の見地から、松沢神奈川県知事のように極端な全面禁煙を県内の飲食店等に闇雲に押し付けようとする嫌煙原理主義そのものの行動を、やんわり戒める点は評価できよう。

世の中には、たばこ好きとたばこ嫌いがいる以上、角突き合わせずに、どこかでうまく折り合って不必要な摩擦を少なくするのが賢明な大人の智慧というものである。いい加減な「疫学研究」に基づく、怪しげな「科学的根拠」なるものを錦の御旗にして、喫煙者を「人民の敵」のように蔑視・敵視・糾弾する昨今のカルト的な嫌煙運動に対して、評子は強い怒りを感じていた。山本氏のこの本は、昨今の行き過ぎた嫌煙運動について、たばこ嫌いの立場からも警鐘を鳴らし、喫煙者と非喫煙者の現実的な共生のあり方を問うている。

些か褒め過ぎたようだ。本意ではない。

山本氏はご自身を「嫌煙家」(珍妙なる造語であり、この安手の国語感覚にはついていけない)と位置づけて、たばこの煙をどうしたら嗅がないで済むかについて、長年の涙ぐましい経験と努力を紹介している。最初は、山本氏の経験談に「そんなに迷惑や苦痛をかけていたのか。知らなかった。愛煙家の端くれとして申し訳ない」と、それなりの同情を禁じ得なかった。しかし、読み進めるにつれて、「嫌煙家」なる人士は、単なるたばこ嫌いの偏執狂ではないかという疑念に取って代わっていった。

というのも、世間には嫌な臭いとして、自動車の排気ガス臭、歯槽膿漏のヒトの口臭、加齢臭、腋臭、糞便臭、はたまたご婦人の香水臭などが遍在している。ところが「嫌煙家」は、たばこの煙だけに特異的に反応して激しい忌避反応や拒否反応を起こす。

これは嗅覚が常人より優れているから、たばこの煙が苦手・嫌いという種類のものではないようだ。即ち、「嫌煙家」は、たばこ以外の臭いには甚だ鈍感で、悪臭を嗅いでも何も感じないようなのだ。とすると、「嫌煙家」は、そのヒトの心の中の何らかの歪んだ心理コムプレックス、あるいは胎児以来の脳細胞の組成がたばこ嫌いの原因となっていると分析した方が的を射ているだろう。

山本氏は「嫌煙家」として、日常生活でたばこの煙を忌避したい本能的欲求を喫煙者に知らしめたいという。一方、「愛煙家」としては、「だから、非喫煙者の立場を理解して唯々諾々と分煙に応じているのではありませんか。図に乗って愛煙家に全面禁煙まで強制するのは行き過ぎでしょう」と反論するわけだが、「嫌煙家」のたばこ嫌いの原因が、心のコムプレックスあるいは脳細胞の組成という本源的なものらしいから、愛煙家との相互理解は到底不可能だろう。これまでの諸々のたばこ論争が非生産的で感情的対立にエスカレートしがちだったのも、宜なるかなである。

とすれば、山本氏が提案するように現実社会の中では、無闇に相手を批判、攻撃せず、お互いに譲り合って折り合いをつけるしかない。しかし遺憾なことに、これまではパイプと葉巻とシガレットの区別もつかない偏狭な嫌煙運動者が、まともな喫煙者と非常識な喫煙者を一緒くたにして一方的に人格攻撃を加え、「マナー」「ルール」などを無理強いするだけであった。ちなみに、まともな喫煙者(一例を挙げれば不肖我々パイプ党や葉巻党)は、シガレットを人混みで吸ってポイ捨てする非常識な莫迦輩の行動に眉を顰め、義憤を感じ、見過ごせない場合は、窘めていたのである。

非喫煙者の立場からもこれまでの禁煙・嫌煙運動の行き過ぎを反省した本が初めて出現したという点に限っては評価できるだろう。タバコの問題、「嫌煙家」なるものの心理に関心のある方は一読されたい。1時間で読める。

(P)
2009/01/14