禁煙ファシズムにもの申す
書評「タバコ狩り」 (平凡社新書、室井 尚著) |
およそ、自分の頭できちんと物事を考えられる人間なら、昨今の猖獗を極める嫌煙・禁煙運動に危機感を覚え、「こういう集団狂気が蔓延る文明社会とは、どこかが根本的におかしいのではないか」と考える筈である。そう考えない人間はおよそ知識人にあらずと断言したい。嫌煙・禁煙運動の跳梁跋扈を見て見ぬふりをしている思想家、哲学者、社会学者の類は、似非知識人であり、その大学教授等の詰らぬ看板を早々に下ろした方が良い。なぜなら、今の嫌煙・禁煙運動には、医学と疫学の誤用と悪用から始まり、科学者の思考の浅薄さをあざとく利用した大衆煽動、現代民主政のMobocracy化など、現代文明が抱える宿痾が、それこそてんこ盛りで凝結しているではないか。これを研究対象とせずして、一体、何を研究するというのだろうか。 平凡社新書「タバコ狩り」を上梓した室井尚氏は、行過ぎた嫌煙・禁煙運動が社会を蝕む危険性に早くから警鐘を鳴らしてきた慧眼の美学者である。 現下の嫌煙・禁煙運動が世界保健機関(WHO)の一人の狂信的タバコ嫌いの女性事務局長の主導で始まり、そのEpigonenらにより、次々とFlakinesssそのものの怪しげな“研究成果”が生み出されるようになった経緯を説明し、平山学説をはじめとするタバコ有害説、受動喫煙有害説の前提の誤りや恣意的な解釈、詭弁、牽強付会、論理破綻を次々に喝破する。ここまでは識者が類書で既に指摘しているところである。 室井氏が強く言わんとすることは、嫌煙・禁煙運動が非喫煙少数者の社会的権利の主張という牧歌的な時代をとうに過ぎ、現在は嫌煙・禁煙運動が本源的に持つ非寛容なCult的攻撃性が剥き出しになって、Leviathanの如き凶暴性を発揮しているということであろう。 嫌煙・禁煙運動の根底に巣食うPuritanismは、その性格上歯止めがかからない。自らと相容れない少数派の喫煙者を異物として、魔女狩りそのものの社会的排除を目論む。現に、日本に限らず世界のMass mediaは、嫌煙Claimerの集団圧力に嬉々として追従してタバコを巡る言論表現の自由を自ら放擲、学者は学問の自由をとうに失っていることを指摘する。室井氏が籍を置く横浜国立大学でも、Cuckooとしか言い様が無い大学管理者連中が嫌煙・禁煙運動の代弁人の如く振る舞うという。 その結果がどうなるかといえば、政治的には全体主義、宗教的には原理主義に直結し、行き着く果ては大衆の相互監視による牢獄的な規律整頓の高度管理社会、病院の無菌病棟のような社会に辿り着くとする。そこには人間の豊潤で猥雑な営みを母体とする真の芸術も文化も生まれず、ただひたすら長寿と健康を願うだけの家畜的な大衆が“健全な生活”を送っているだけであると予測する。 室井氏の思想の立脚点には、愛煙家の間でも様々な異論があろうが、暴走機関車の如き今の嫌煙・禁煙運動の忌むべき本質を鮮やかに剔抉していることは間違いない。 愛煙家必読の書としてお奨めすると同時に、無邪気な善意に満ち溢れた健康至上主義の嫌煙Claimer諸氏にも警醒の書として一読を薦めたい。「あなた方の運動の本質はそういうものなのですよ」と判って貰う為に。 (P) |
2009/06/25 |