禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムは「復讐」か
小谷野敦

私が禁煙ファシズムを批判していると、しばしば、「これまでが喫煙ファシズムだったのだ」という声を目にすることがある。なるほど、古い映画やドラマを観ると、まるで別の世界のように、人々は職場でも、病院でも吸っている。しかし、それなら分煙でいい、と言っているのに聞かないのが禁煙ファシスト、あるいはマッド禁煙ティストなのだが、その「これまでが喫煙ファシズム」という声を目にするたびに、私は、

(つまり、復讐ということか?)

と、いつも思うのである。

一九八○年代、フェミニズムが盛んだったころ、「それではまるで女尊男卑ではないか」という声に対して、少数ではあるが、「これまで女は何千年も抑圧されてきたのだから、これからは男にも苦しんでもらう」という意見が出たことがあった。「復讐」というのは、そういう意味である。これまで嫌煙家は苦しんできたのだから、分煙などというのは生ぬるい、喫煙者にもっと苦しんでもらおう、という「復讐」の思想である。

私は、復讐というもの一般を否定しない。あいつにひどい目に遭わされたから、何らかの形で復讐する、また、自分の家族を殺した奴を死刑にしてほしいと思う、それは正当な要求だと思う。

だが、過度の復讐はむろん良くないし、集団による集団に対する復讐については、私は大きな疑問を持っている。

たとえば、家族を殺した者の家族に対して復讐するというようなやり方、あるいは、日本人は朝鮮半島を支配し、シナを侵略したから、それへの復讐として、今もなお、日本に対して罵詈雑言を投げつけてもいいのだという「集団による集団への復讐」、ユダヤ人は長いこと西洋で差別されてきた、ヒトラーには大量虐殺さえされた、だからイスラエルは、パレスティナに対して少々の横暴をしてもいいのだという考え方、そういうものである。復讐は、実際に害意をもち、ないしはそれに近い状態でひどいことをした本人にのみ、なされるべきだと、私は思う。

私などは四十六になるから、若いころは、煙が嫌だという人の前でも吸っていただろう。それについて、申し訳なかった、と謝ってもいいと思う。しかし、それでも許さんと言われたら、もう戦うしかない。しかもそれなら、子供のころ二度も交通事故に遭った私は、クルマ社会を作った連中に謝ってほしいし、酒乱による恫喝が一因となって大学を辞めた私は、その男に大学を辞めてほしい。

二〇〇一年の米国でのテロ以後、「暴力の連鎖」ということがよく言われるようになった。いま起きているのは、このような嫌煙家と喫煙者の、憎悪の連鎖である。暴力の連鎖を憂える新聞などのマスコミは、こうした憎悪の連鎖をまったく憂えることなく、煽りたてている。

フェミニズムは、過激な主張を繰り返しているうちに、力を失ってしまった。まだしも、ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』に描かれたような、フェミニストによるテロ事件が起きなかっただけ、ましではあるが、フェミニズムは結局、弱い男たちを委縮させる結果をもたらしただけ、エリート女たちの出世の機会を増やしただけ、ではなかったのか。いや、そう言えば言いすぎだが、阪大のYM准教授のように、初対面の女子院生と研究室でセックスしても、何のお咎めもなし、といった具合に、強い男が生き残る結果をもたらした、とも言いうるのではないだろうか。

嫌煙家たちの「復讐」も同じである。たとえば、最も許し難い喫煙者の行為として、自家用車の中で喫煙し、人気のないところでクルマを止めて、灰皿の吸殻と灰を外へごそっと捨てて、そのまま走り去る、というものだ。そして、今なお、こういう悪事を止める手立てはない。私は大学のキャンパスで喫煙して非常勤講師をクビになったが、専任教員なら、自分の研究室では吸えるのだから(もっとも大学によってはそこも建前上禁煙になっているが、むろん誰も監視してはいない)、要するに、社会的地位のある喫煙者は、大して困っていない。東北新幹線が禁煙になっても、政治家なら自家用車で行くだろう。このように、集団による集団に対する復讐は、集団の中の強い者ではなくて、弱い者に襲いかかるのである。

私はかつて、そこまで煙草に害があるなら、法で禁止したらどうか、と挑発的に言ったことがある。最近では、そういうことを主張する者たちも増えているらしい。だが私は、それは得策とは言えないと思う。たとえば、明治以来の廃娼運動の結果として売春防止法ができたが、売春はなくなってはいない。ソープランドで売春がなされているのは天下周知の事実である。

しばしば、SFもののドラマなどで、人間こそがこの地球を汚しているのだとして、人類の絶滅を画策する「敵」が登場することがある。たいてい、主人公たちは、それと戦い、人類は自らをよりよくしていく力を持っている、などと主張する。禁煙ファシズムというのは、突き詰めれば、この思想になる。

私は、自分がかつて、売春撲滅を唱えていたこともあるが、人は時に、この世の醜いものを憎み、廃絶してしまいたいという熱情にとらえられがちである。セックス、肉食、金銭といったもので、金銭を敵視したのが、マルクス主義である。しかし、いずれも失敗に終った。むろん、ヴェジタリアンというのはいるが、いわゆる「環境テロリスト」もあって、これなどもまさにその「清浄志向」の思想の一つだろう。

先般亡くなった太田竜という評論家など、差別撤廃を唱えるうちに、搾取されているのは家畜だとして、家畜制度の廃絶を唱えていた。呉智英氏はこれを嗤い、そのうち微生物差別廃止というので、味噌や納豆の廃止を唱えるようになるだろうと言っていた。しかし、笑いごとでは済まなくなる時が来る。ポル・ポトは、農業こそ尊いという思想から、知識人たちを虐殺したのである。

オウム真理教の「ポア」や「ヴァジラヤーナ」も、その一種であることを、私は島田裕巳の『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を読んで、やはりそうだったかと腑に落ちるものがあった。仏教には、そもそも現世にあるということを厭う部分があり、それが、自ら食を断ってミイラ(即身成仏)となるとか、補陀樂渡海のような行が存在するのである。

筒井康隆の短編「薬菜飯店」は、多くの人の心の底にある、自分の体は汚い、汚物と毒物の塊である、という思想を直撃するもので、人々は、あそこに描かれたように、自分の体から悪いもの、汚いものがすべて排泄されたらどれほど素晴らしいか、と考えており、だからあの短編は共感を呼ぶのである。それで、デトックスなどというものがはやり、中にはそこへ行って、足を水につけると、どろどろと汚いものが出現して、はい、足から汚いものが出ましたよなどと騙されて帰ってくるのである(あれは足をつけなくてもそうなるようにできているのだ)。この私でさえ、時おりは、これまで喫煙したことで溜まった毒を全部排出することができたら、と夢想することもある。だが、別に喫煙しなくても、人は自ずと老いる。老いればさまざまに故障が出るのである。

先ほど触れた「人類総入れ替え計画」のSFの一つである、マンガ版『風の谷のナウシカ』では、最後に、その計画を潰したナウシカが、人類は汚いけれども生きていく、と宣言して終っていたと思う。

もっとも、酒や自動車を問題にしようとしない禁煙ファシストたちは、それ以前の段階にいるとしか言いようがないけれども。

こやの あつし:比較文学者
学術博士(東大)
評論家 
禁煙ファシズムと戦う会代表
2009/07/01