禁煙ファシズムにもの申す
郡山遠征記 その2 |
小谷野 敦
実際には私はもう、電車に乗ること自体が嫌になっていた。 何しろプラットフォームが禁煙だからで、地上駅なのにバカバカしいこと限りなく、所詮少数に過ぎない嫌煙勢力に屈する鉄道会社が呪わしかった。 何も吸いたくてならないというわけではなくても、このような愚行が許せないのである。 だが、もちろん誰もいないようなフォームの片隅で吸っていても駅員はやってくるし、駅員とやりあってもただ疲れるだけで、だからもう電車自体が嫌であった。 むしろ、フォームへ上がったとたんに電車が来ると、これで駅員とやり合わずに済む、と安堵するくらいであった。 その日は一時くらいに家を出た。 明大前で乗り換えて新宿へ出て、途中に新幹線の切符売り場があったので、試しにやってみたら、まだ「禁煙」「喫煙」の表示が残っていて、しかしむろん喫煙席は存在しないのが悔しかった。そこから埼京線に乗る。 普通電車に長く乗っているのも、新幹線に乗るのも同じではないかと思う人もいるだろうが、それは違う。各停なら、どうしても吸いたくなったら降りて吸う(たとえプラットフォームが禁煙でも)ということができるが、新幹線ではそれはできない。 この、やろうと思えばできるがしない、というのと、できない、というのとの違いは大きいのである。 ようやく大宮へ着き、ここで宇都宮線に乗り換える。私は東武線で宇都宮まで行ったことはあるが、こちらは初めてだ。 途中、古河、小山といった駅に着くと、古河は私が昔研究した『南総里見八犬伝』で重要な役割を果たす町なのでちょっと感慨を催したが、既に利根川は通り過ぎていた。 宇都宮駅で終点、ここから黒磯行きに乗り換えるが、ここもフォーム禁煙で、怒りがたちのぼるが、フォームの端の、事務所の裏手に、吸殻がいくつも捨ててあり、レジスタンスの痕跡だと思って嬉しくなり、私もここで吸い、いつもは吸殻は持ち帰るのだが、嫌がらせのためにそこに捨てた。 黒磯といえば、まだ栃木県内である。 ここもまた、先に伝記を書いた里見クの別荘があったあたりである。 車内には、聞き慣れない方言で喋る元気そうな女子高生二人がいた。私は既に一冊の本を読み終え、二冊目にかかっていたが、疲れたし、もう四時半を過ぎて、腹も減ってきた。 黒磯にようやくたどりついて、プラットフォームを歩いて行くと、喫煙所があったから、まずびっくりし、ああそうか、首都圏を離れたのだと思い、そそくさとガラムを出して吸った。 地獄で仏というか、たかがこうして喫煙所を置いておくことすら許さない嫌煙家どもの悪質な喫煙者への憎悪はまったく、狂っているとしか言えない。 もし私に対して、大学の非常勤までクビになり、裁判にも負けてまだやっているのか、とんがってないで少し我慢すればいいのに、などと言う者は、要するに歴史を知らないのである。 先の戦争の時だって、多くの知識人が戦争に反対できなかったのも、結局同じことではないか。 しかもあの時は、警察、軍部による激しい弾圧や脅迫があったのに、今はそんなものはない。なくてさえここまで唯唯諾諾と「流れ」とやらに従うのだから、あの時従ったのも当然だわなあ、と思うのである。 やっぱり本当に五時間かかって、郡山駅へ着いたのは六時過ぎだった。 私はホテルの場所を確認せずに来てしまい、腹が減っていたから、何か食べてからホテルでひと寝入りしようと思った。 私は神経症の後遺症というのか、その流れで、夕方一時間半くらい睡眠をとるのである。 そこで、駅内の店でワッフルを買い、売り子の女の子に「×フォートホテルってどこか分かります?」と訊いたら、田舎の赤いほっぺたの女の子みたいなその子は、分からないらしく、「少々お待ち下さい」と言って、後ろにいた、ちょっとかわいい女の子のところへ行って訊いていたが、そのもう一人の子が、口を縦に開けると、首をかしげた。 その仕草が、疲れた私にはひどく苛立たしく見えた。やっぱり分からないという。 西口が繁華街らしいのでそちらへ出て、一服しながら駅前の地図を見たが見つからない。 駅へ取って返して、公衆電話のところの電話帳でホテルの住所を確認すると、どうやら東口らしいので、東口へ向って歩きはじめたら、やたらと幅広で人が少なく、長い連絡通路で、途中には、職業安定所の案内板が目に立ち、もしや、私のとったホテルは、無職の者の泊まるドヤ街的なものではないかという不安に襲われた。 確かに安いホテルではあり、ただ一泊一人で泊まるだけだから、そんな豪勢なホテルも必要ないと思ったのである。 長い通路を抜けて西口へ出ると、まったくこれは「辺鄙」なところだ、と思うほどに、がらんとして何もなかった。 またそこで一服して、通りを横切ると、ファミリーマートがあった。 左手を見ると、百メートルくらい先に、×フォートホテルが見えた。 チェックインしてひと眠りしたが、ホテル内の食堂はなかったし、あってもどうせ禁煙だから、私は使わない。 そこで起きると、ファミマへ行き、火を通さないでもいい坦々麺のほか、明日の朝に備えてパン類、それと缶コーヒーを二本など生活物資を買って帰った。 翌朝、文学館へ電話をしたら、月山さんが自動車で迎えに来てくれた。 私は地図さえよく確認していなかったのだが、文学館、講演会場ともに西口にあるという。 月山さんは五十代くらいの人で、まず久米家の墓地へ連れて行ってくれた。 しかし郡山市内が、日曜だというのに閑散としているのに少し驚く。 私の実家がある埼玉県南部のK市も、このところの寂れようはひどいが、これは首都圏が近いせいだと思った。 福島でもこんなか、と思ったのである。月山さんによると、郊外に量販店ができたのでみな車でそちらへ行ってしまい、駅前のデパートがつぶれたという。 墓地は、意外な収穫が多かった。久米家のみならず、中条家、石井家、立岩家の墓地もあり、いろいろなことが分かった。しかし恐らく現時点で、これらの情報を重要だと感じるのは私ぐらいだろう。 それから文学館へ行き、館長の山村さんという六十代の男性に案内してもらう。 ここでも、まだ見たことのない重要な書簡などの収穫があった。 移築された邸は立派なもので、芦屋にある谷崎潤一郎記念館が、『細雪』に描かれた当時の屋敷を少し位置をずらしたものであるのが、これがあの『細雪』の舞台かと驚かれるほど小さかったのとは対照的で、やはり通俗小説は儲かるのだなあと思った。 女中部屋の向いの鴨居に、六つまでの数字を示す装置がついていて、山村氏によると、来客の人数を女中に報せるためのものだということだった。 居間には暖炉があり、梅原龍三郎のデッサンが掛かっていたから、これは結構高いんじゃないですかと訊くと、百三十万くらいだというから、案外な安さに驚いたが、多分梅原はたくさん描いたから値が相対的に低くなったのだろう。 小谷野敦:比較文学者 |
2010/09/15 |