禁煙ファシズムにもの申す
歴史に学ぶ禁煙ファシズム その2 |
小谷野 敦
禁煙ファシズムで特徴的なのは、知識人の中には、フーコーの「生かす権力」の概念を用いて批判する者が多いのに、マスコミ、特に新聞がそうした声は報道せず、また執筆もさせないことである。 これは西洋でも同じことで、この現象から私が思い出すのは、十九世紀末のフランスにおけるドレフュス事件である。 ドイツのスパイと疑われ、軍事裁判で有罪になったドレフュスは冤罪だったが、軍隊はその威信を守るために誤りを認めず、これを「われ弾劾す」で攻撃した作家のエミール・ゾラは、裁判にかけられ、英国へ亡命したが、この時、新聞の多くは反ドレフュスであった。 しかし当然ながら、現代日本には言論の自由があり、私や室井尚、斎藤貴男のように、禁煙ファシズムを批判する著書を公にすることはできる。 インターネット上でも書くことができる。 だが、そのことは社会を少しも動かさない。 衰えたとはいえ、新聞は依然として高齢世代に対して影響力が大きく、テレビもまた然りであって、受動喫煙の害で何千人が死んでいるなどという、厚生労働省のおよそバカバカしい計算の結果が報道されて、やはり中には、厚労省がどれほどひどい組織かこれだけ報道されていても、なおかつ信じる人はいるだろう。 つまり、国家からの言論の自由が達成されても、マスコミさえ抑えてしまえば大丈夫である、ということが、今回明らかにされたわけで、これは治安維持法下の日本の状況とも異なっている。 いわば、「啓蒙の弁証法」とも言うべきものかとも言えるが、実際には、マスコミ支配の政治学と言うべきであり、しかもそういったマスコミへの、ソフトな言論統制は、二・二六事件のようなテロの結果ですらなくて、市民運動家という、数からいえばせいぜい数千人しかいない者の「抗議」と、空気によって成立していると言える。 やはり、歴史上に類を見ない現象なのである。 しかもこの場合、なるほど中共などはさして禁煙ファシズムは透徹してはいないが、亡命先としては険呑だし、亡命するほどの緊急性もなく、ただ先進諸国全体が、不気味な静けさの中に、ファシズムを進行させていると言えるのである。 なお「ファシズム」という語について、その定義はかねて曖昧で、一定していないが、結局のところ、イタリアでムッソリーニが始めた運動と、その類事物たるヒトラー、フランコの政治という、普遍性を持たない、いわば「ボナパルティスム」のようなものとして用いるか、さもなくば全く新しい定義を行うべきではないかと思う。 昭和初期の日本を「天皇制ファシズム」と呼ぶことがかつて常識のように行われたが、それがどのような意味で「ファシズム」なのかは、遂に分からなかった。 確かに国民に対しては、天皇が現人神である、崇敬の対象であると教えられたが、それなら連合国側の英国であっても同じことだ。 またイタリアにも国王はいたが、それがファシズムを支えたわけでは全然ないし、イスパニアに至っては、王制が倒された後に、フランコが現れ、フランコという「独裁者」が死んで王政復古して民主化された、ということになっている。 さてそこで、禁煙ファシズムの奇妙な性格について考えるなら、まず、それが中心を持っていない、ということがある。 確かに、かねてから嫌煙運動を推進してきた、元自動車会社の社員である人物はいるし、禁煙活動に熱心な医学者もいる。元ノルウェー総理のブルントラントとか、組織でいえばWHOとか、厚労省とか、愛知県がんセンターとか九学会連合とかがあるけれど、結局、ヒトラーやムッソリーニのような、中心はどこにもない。 二〇〇二年の「同時多発テロ」というものがあるが、これは一つの組織が同時に多発させたものであり、禁煙ファシズムは、そのような中心組織を持たない、同時多発ファシズムと言うべきものになっている。 そう考えると、やはり類似を感じるのは、売春撲滅運動や、ポルノ、ラブホテルといったものへの法的制裁とその強化である。 青少年のセックスや、児童ポルノといったものが、近ごろでは標的になっている。 だが、最近のことでいえば、児童ポルノへの罰則強化の動きに対して、宮台真司を始めとする知識人らが反対の声明を発したことであり、禁煙ファシズムにおいては、そのようなことがない、という点が、ここでも大きな違いとしてある。 これは、かつて山崎正和氏が、ではエイズに罹っている者が他人と何ら予防をせずにセックスしても罰せられない、あるいはそれが喫煙に比べて保護されているように見えるのはなぜかと問うて答えたのと同じで、近代社会は、「性」に対する抑圧への抵抗という型を作り上げてきた、それに対して、嫌煙、禁煙運動については、それを作り上げ損ねた、ということが言えるだろう。 それに、この場合声明を出した人たちは、自らがポルノ漫画などを描く人たちではなくて、評論家が主であり、自らが児童ポルノを所持していると言明した人もあったが、実際に取り締まられているのは、インターネット上の、犯罪性を帯びた悪質な児童ポルノであり、かつて藝術として販売されていた少女ヌードではない。 さてしかし、直接弾圧はしないけれど、じわじわと「空気」で締め付けるというこのやり方は、どうも歴史上に例を見ないもののように思うのである。 だが、そういう事態を予言したものはある。オールダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』である。 『一九八四年』とか『われら』など、未来の管理社会を風刺した小説はほかにもあるが、これらはたいてい、ソ連を批判したものである。その中でも、一番「禁煙ファシズム」に近い未来を予想したのは、ハックスレーのこの本なのである。 つまり、表面上はすべて、民衆のためにという外貌で行われる管理、それがいかに恐ろしいかということを描いたのが、ハックスレーの小説なのだ。 最近の、若くして死んだ伊藤計劃の『ハーモニー』は、禁煙ファシズム批判をも籠めつつ、似た主題を描いたものだが、先駆的ということではハックスレーである。 しかし、ハックスレーもまたソ連批判を考えていたもので、だがソ連は、その当時考えられたほどの「理想郷」ではなかった。スターリンの大虐殺や粛清といったものは、その当時はまだ知られていなかった。 元来、トマス・モアの『ユートピア』や、さらに古くプラトンの『国家』もまた、いま読めば、あまりに強い理性によって統治された、息苦しい社会であり、プラトンは、当地のためには詩人(文学者)は有害だとまで言っている。 ただ空想で描いた未来の管理社会は、いま禁煙ファシズムによって見事に実現されつつあるのだ。 さて菅直人総理は、『すばらしい新世界』を、影響を受けた書物として挙げたが、この現状をどう考えているのか、聞いてみたいところだ。 しかし、いかなる政治家も、禁煙ファシズムを批判して政治家であることはできない。 いや、これは私は知っている。いじめの横行する高校で、担任教師もその「空気」に逆らうことはできなかった。それに似ている、と言えようか。 (終わり) 小谷野敦:比較文学者 |
2010/11/22 |