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追悼 外川広洋さん |
日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)の世話人として、いや「JPSC=外川広洋」そのものとして大活躍されていた外川広洋さんが、平成23年5月13日朝、急逝されました。訃報が伝わると、パイプ仲間の世界に物凄い衝撃と深い悲しみが広がりました。 「何かの間違いだろう?」「いつもあんなに元気一杯だったのに……一体なぜ」 「まだ死ぬのは30年早いよ」 もう毎月の例会や初夏の旅行会で、外川さんの洒落と毒のたっぷり効いた明るい声を聞くことはできなくなりました。 外川さんと言えば、パイプ仲間は皆、様々な思い出があるでしょう。 そうした思い出をそれぞれ綴ることで、外川さんに哀悼の意を捧げ、ご冥福を祈りたいと思います。 JPSC事務局
あまりに意外な知らせ。いまだに受け入れることが出来ない。 3月11日の地震と原発事故で、平和でちょっと退屈な日常は不変ではないと知ったつもりだったが、甘かった。死は唐突に人のストーリーを終わらせる。もう、外川さんとの想い出は作れないのだ。 出会いは運命的でさえあった。私が菊水で初めてパイプを手にしたその時に、くわえダンヒルでフラリと入ってきて「パイプ、長いんですか?」と声をかけてきたのだ。 以来8年、口うるさい先輩のおかげで、楽しくパイプの世界を広げることができた。好みの葉が同じ銘柄だったので、お互いよく貰いタバコをした。「オノダ、タバコくれ」パウチは丁寧にぎゅうっと封をして返ってくる。べらんめえ口調に似合わず、こういうとこは繊細だよなあ、と毎回思った。 外川さんの死は、私には手痛い気づきとなった。ほぼ毎月顔を合わせていたのに、私は写真を仕事としている人間なのに、遺影にして送り出せるような写真を撮っていなかったのだ。幸い、相田女史が旅行会で撮った写真がお気に入りだったということで収まったが、とっておきの1枚を差し上げたかった。 どうか、そちらでしばらくゆっくりとラールセンをふかしていて下さい。 謹んでご冥福をお祈りいたします。 JPSC 小野田麻里
外川さんとお会いしたのはたった一度、彼がオークショニアを務めた、今年の新春オークションの日である。押しが強いように見えながら、参加者のキャラクターを把握しながらの気配りが感じられる進行は、玄人はだしで、会に初めて参加した私にとっては大変面白く、存分に楽しませて頂いた。それに触れただけでもはるばるやって来た甲斐があった。残念なことにその日は挨拶もそこそこに、慌ただしく一次会で辞した。またいずれ例会でお話を伺う機会もあるだろうと思い、その日を楽しみにしていたが、それも叶わぬこととなってしまった。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。 JPSC 福井貴史
二年前、外川さんに「買えよ、黙って」と言われて落札したパイプは本当に吸いやすい、いちばん愛用している。 目利きがだんだんいなくなります。太く短い豪快な人生はあっぱれです。 JPSC 小枝義人
外川さんから教わった事。 人に親切にする時は、なるたけ恩着せがましくするべし。そうすると、相手はその事を負担に感じなくなる。 さりげない親切なんてクソクラエ。 徹底した含羞の人だった。伝わりにくい優しさを持っていた。しかし周りの誰もが、その事に気付いていた。 だからあんなに愛されていたのだ。 JPSC 伊瀬知明生
外川さんの思い出 「外川さんが亡くなったよ」 その訃報を聞いた時、絶句した! 話が切れても暫らく茫然自失してしまった。 先月電話で、「来月の総会で東京へ来るなら、土曜日から来いよ、一杯飲もうや。」と約束をしていたのに……… 今年になってからも、多くの友人、知人が鬼門に入ったが広洋さんほどショックを受けた人はいない。 ナイスガイ! この言葉が似合う奴だった。 とにかくかっこ良かった。 ワインバーで一緒に飲んだくれていた時、置いてあったピアノを 「ちょっと弾いていいかい。」 と、言って、ジュズを一曲華麗に弾いた。 店中拍手喝采を浴びて、アンコールを受けても、「こんなものはボロが出る前に止めるもんだ」と次は披露しなかった。 カッコエエ! 10数年前の水戸大会の、前日観光の時、カウボウイスタイルで決めて行き、乗馬させて貰って嬉しくしていたら、「へ? 香山、お前も馬に乗れるんだ!」と、言いながら、華麗なたずなさばきで、馬を走らせていた。 言葉づかいは、ぞんざいなところもあったが、それも広洋の飾らない本音で付き合える間柄だったと思う。 「おい香山」「なんだい広洋」の良い付き合いをさせていただいた。 最初に会ったのは、確か、第6回の帝国ホテルでの全国大会だと記憶している。 あの頃、私も広洋も30位〜40位の記録。いつかは10位以内になって、壇上に上がりたいと話しあっていた。その後、大会毎に、「今日は、俺の勝ちだ」と言い合う、良きライバルだった。私が日本一になった時も「1位は先に取られたが、チャンピオンパイプは、俺の方が先だったぜ」との負け惜しみ。 彼が仕事で、毎月岡山へ来る様になり、交際範囲が岡山パイプクラブ全員になった。 ご存知のあの華やかさと言うか賑やかさで、岡山のメンバーと直ぐに仲良くなり、準会員として、例会に参加して貰ったり、一緒に飲みに行った。 36回大会の時、倉敷で岡山のエンブレムを差し上げたら、「何で2種類在るのに、片方しかくれない?」正会員は両方、準会員は片方だけと言うと、「来年の会費は払うから両方よこせ、名簿に載せても良いが、俺の本籍はJPSCだからな」 さらに、「最初から片方はくれると言っていたから、もう一個よこせ」と言って巻きあげ、一緒に居たJPSCの人に差し上げていた。 とにかく、面倒見の良い奴だった。そして、人の心を掴むのが上手い男だった。 本当に上手い、次も協力しようと思ってしまった。 もうあの笑顔に逢えない、話せない事が、本当に辛い。 合掌 岡山パイプクラブ 香山雅美
派手に死んだな 外川広洋さん 「外川さんが急死した」とパイプ仲間から連絡があり、「えっ! まさか! 外川さんが!」と息が止まるほど驚愕した。 死因が石原裕次郎と同じ急性大動脈解離だと聞いて「君らしい豪快で派手な死に方だなぁ……」と思った。 いつも元気一杯。 飛び切りの才人で頭の回転が速く、寸鉄人を刺す警句や皮肉が何より得意。 それでいて世話好きで面倒見が良く、JPSCの世話人としてJPSCを文字通り背負っていた。 何よりも他人に愛される磊落な人柄だった。 そしてミスターJPSCそのものだった。 東京・山の手のボンボン育ち。著名な海軍軍医だった父親の勧めで医大に進学したが、「俺には医者は向いていない」と一年で勝手に退学。父親の逆鱗に触れて寺の住み込み小僧として一、二年人間修行をさせられた。以後、小説にも書けるような波乱万丈のビジネスマン人生を送った。 JPSCには自由業の方が多く、「この人の仕事は何だろう。一体、何で飯を食っているんだろう」と思わせるような方が多い。俗世間の生活感が希薄な人だ。外川さんもその典型で、生活感がまるで感じられないナイスガイだった。ひたすらパイプとタバコを愛し、銀座のクラブや新橋の飲み屋で派手に騒いで遊ぶのが好きだった。女子供には決して理解されないだろうと思う男の生き方だった。 数年前、パイプ仲間で一杯飲んでいる時、外川さんが「俺はもう自分で戒名をつけているんだ」と自慢した。「寺の小僧で修行した方はさすがに心掛けが違うね」と冷やかしたが、聞くとパイプの煙をこよなく愛し、煙のように往生する男という意味だった。 外川さん、まだ60歳だろ。煙になるのは早過ぎるよ。 互いに面と向かって憎まれ口ばかり叩いていたよな。 だけど、君がいなくなると寂しいよ。 幽霊に化けて出て、パイプをくわえてJPSCの例会を仕切って欲しいよ。 JPSC 平野憲一郎(No.68)
韮上ノ露、何ゾ晞キ易キ 「外川さんから御預かり物があります」、新橋駅前の煙草屋に顔を出すと店主がパイプを出してきた。「ロケットと同じ材料だからお前にやる」とのメッセージ付である。自分が一時宇宙関係の仕事をしていた関係だろうが、パイプ喫煙時そんなに高温燃焼させている積りは無い。 パイプクラブ入会では先輩、誕生日も此方が1週間だけ早い。自己最高記録も数秒勝っているので、まさに煙たい存在だったのだろう。例会のコンテストでは、彼の毒舌攻撃の格好の目標だった。今後、彼のいない静かなコンテストでは調子が出ない予感がしてならない。 この連休前珍しく銀座でご馳走になった帰路、渋谷のよく行ったスナックに返礼替りに同道した。もともと歌は上手いと自称していた。得意さが鼻について滅多に褒めたことは無かったが、このときは何故か「お前上手いな」と素直に口に出たのは不思議である。その翌週に倒れ,不帰の途に発ったと報せを受けて呆然とした。こんなことならあの歌を貶しておけば、また一緒に飲み歩けたのかもしれない。 JPSC森谷 周行(No.82)
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