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[訃音]漫画家で、日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)会員のアヤタクニオさんが平
成26年4月16日に逝去されました。
漫画家で、日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)会員のアヤタクニオさんが平成26年4月16日に逝去された。享年83才。
アヤタ氏は独特の画風とアクリル絵具を駆使した鮮やかな色彩で一世を風靡した。JPSCのメンバーであったことからの縁もあり、日本パイプクラブ連盟の全国大会のポスター、プログラムや連盟の機関紙「ぱいぷ」の表紙画に寄稿され、独特の画風でパイプ愛好家の目を楽しませていただいた。都会的な感覚と伸びやかな描線、華やかな色彩の創作活動を続けてこられた。
アヤタクニオ氏略歴
1931年 東京に生まれる1953年 朝日新聞社アサヒグラフ漫画学校コンクール第1位入賞
1974年 イタリア国際漫画サロン外国漫画家賞
1975年 イタリア国際漫画サロンインペリヤ賞
1976年 イタリア国際漫画展グランプリ
1978年 ドイツ(ベルリン)世界漫画特別賞など受賞
所属団体
公益社団法人 日本漫画家協会漫画集団
日本パイプスモーカーズクラブ
尚、日本パイプスモーカーズクラブでは6月17日に開催する例会をアヤタさんを偲ぶ会として開きます。ゲストも歓迎いたしますのでアヤタさんに所縁のある方はぜひご出席ください。(銀座5丁目、カフェ・ジュリエにて18時30分より)
アヤタさんの想い出
アヤタさんは良く絵を送ってくれた。ケーキを送ると、カットしたケーキの絵を描いてすぐ送ってきてくれた。
カフェ・ド・ランブルの店には、パイプを銜えた男性の前に本とコーヒーカップが描かれたアヤタさんの作品が飾ってある。
JPSCのメンバーには、他にも漫画家がいたね、自動車好きだった佃公彦さんもいたね。画家も岡部さんを始め後藤さんと個性豊かな人が多かった。梁山泊のようだと云われたこともあった。
アヤタさんも亡くなって寂しくなるね。
アヤタさんを惜しむ
私が中学生の頃(昭和26・7年頃)の「朝日画報(?)」に、朝日新聞社主催の漫画コンテストで「アヤタクニオ」という若い作家の作品が、優勝作品として紹介されていたのを覚えている。実にすっきりした線と、極めて品の良い作品だったのが印象に強く残っている。
その後、複数の新聞に風刺漫画や挿絵が載るのをお見かけしたものだが、えげつない記事を書く記者が増えた近ごろの新聞記事も、アヤタさんの絵が入ると、引き締まって見えるから不思議である。堕落した新聞記事がアヤタさんの実に品の良い作品で辛うじて矜恃を保っていたと云えよう。
書家のご子息であったアヤタさんは、筆も素晴らしいが、絵も素晴らしい。
私のオフィスに絵が架かっていないのを見て、一月ほど後に突然大きな荷物が届いた。新緑の緑に浮かぶように、大好きなホルベックをあしらった絵である。東北大震災には、リチャード・ダンヒルから頂いた1907年当時のダンヒル店を描いたリトグラフなど、他の絵は壁から墜ちてしまったが、アヤタさんの絵はビクともしなかった。
体調を崩される数年前までは、毎年のように二月になると、JPSCの古いパイプ仲間数人と拙宅を訪れて下さり、ストーヴの赤く燃える火を前に、アヤタさんの独演会が始まるのである。飄々とした語り口のアヤタさんは、若い頃に住んでいたフランスやイタリーの話、訪れた北欧の絵画の話、等々、話し出すと数時間の独演会になる。作家の松山荘二氏(故人)も、アヤタさんの前では静かなものだった。
アヤタ クニオさんの想い出
久しぶりに、アヤタさんの家に電話をかけ、受話器の向こうからアヤタさんの元気な、あのかん高い声が聞けると思ったのですが、奥様から4月16日に亡くなられていたことを知らされました。
アヤタさんがJPSCに入会したのは昭和61年(1986年)からでした。入会以降はJPSCの会報誌『PIPE』に毎号巻頭のパイプにまつわる漫画を描いておられました。
アヤタさんが入会したのは、松山荘二さんの友達だったからだと思います。この二人の会話は絶妙でした。最も多弁なのはアヤタさんで、八割はアヤタさんが一方的に喋っていたような記憶が残っています。
アヤタさんは海外で多くの賞を取られているのだけれど、「海外に行っても漫画家は言葉が出来なくても、紙とペンさえあれば困らない。欲しいものを絵に描けば通じるのだ。ただレストランで塩が欲しくて海の絵を描いたんだけれど、通じないんだよね、後から考えると、ヨーロッパは岩塩で海水から作らないだよね。」と云っていた。
アヤタさんは漫画集団に属していましたが、もう一コマ漫画を描ける人はいなくなってしまったかもしれません。かっての漫画は一コマの中で全てが完結した、今や劇画・ストーリー漫画が主流になってしまったし、その意味では近藤日出造さん達の良き時代の漫画集団の一人だったように思えます。
途中からはその独特の線画の他に、アクリル絵の具を使った豊かな色彩感覚を持ったカラフルな作品も描いていました。そしてデザインも手がけていました。
「松山君と違ってさ、パイプの事よく判らないんだけどさ」と言いながら。大柄なパイプをぶかぶか吹かすのがアヤタ流でした。
こんなことも言ってました、
「えーとね、作品を貰うコツは、ともかく誉める、誉めて誉めまくる、そうすると帰る時に、持っていって下さい、って話になる。昔棟方志功さんの家に遊びに行った時、そうやって貰ってきたんだ。それを便所に飾っていたんだけどさー、画廊の人間が家に来て、便所に入ると不思議な顔して帰ってきて、あのー棟方先生の作品ですよね、最よいところに飾っていたらいかがですか、なんて言うんだ。」
面白い人だった。
昨年ポーランドのポズナンのワールド・カップで見かけた大柄なヨーロッパ人、アヤタさんの描いたパイプの絵柄がプリントされたTシャツを着ていました。そのデザインがヨーロッパの風景の中に溶け込んでいた事を想い出します。
まだ、あの笑い声が聞こえてくるような気がしてなりません。
ご冥福をお祈りいたします。
アヤタクニオさんが亡くなられた。近年はお逢いするのは日本パイプスモーカーズクラブの総会の折のみになっていました。総会にはほぼ毎年出席されておられたので、年1回となってしまいましたが、お逢いするのが楽しみでした。ただここ2、3年はお見えにならず心配していたところです。
アヤタさんの作品、特にパイプの係わる作品は、パイプ好きにとっては見ただけでアヤタさんを思い浮かべ、カラフルな色彩感覚にあふれた秀逸なアイディアに多くのパイプ愛好家が思わず目をみはる思いをされたことがあると思います。全日本選手権大会のポスター、パンフレット、日本パイプクラブ連盟の機関誌「ぱいぷ」の表紙を何度も飾られたのも多くの皆さんが覚えておられることと思います。またデザイナーとしても素晴らしく、連盟のために描かれたTシャツのデザインは着ている人がパイプ好きとすぐ判るものでした。
アヤタさんは連絡すれば、かならず“絵ハガキ”で返事を寄せて下あり、それには簡潔なメッセージと“絵”があり、ハガキをいただくと思わず和む気持ちになったものです。“絵ハガキ”の“絵”は当然ですが、“書”の方も素晴らしいもので、さりげなく書かれていますが、すみずみまで神経が行き届いた鮮やかな手跡でした。
近年は朱と墨で描かれた干支の年賀状を頂戴するのが楽しみでしたが、今年はとうとう届きませんでした。今になって思うとすでに体調が優れられなかったのだと気が付いた次第です。もうあの干支の年賀ハガキを二度といただくことはないのは本当に残念です。この夏はアヤタさんデザインのパイプ柄のTシャツを愛用しようと思っています。