日本パイプクラブ連盟副会長の砂山有生様が、9月10日に逝去されました。
行年77歳。茲に謹んで哀悼の意を表します。
砂山様の御遺徳を偲んで、追悼の文を掲載いたします。
砂山先生、そちらでもパイプを燻らせていますか?
岡山パイプクラブ会長 香山雅美
告別式の時、棺の中の先生の顔の横には、先生が一番愛用していたミッケのパイプに煙草が詰めて置いてありました。
先生がミッケ氏から直接購入した一番のお気に入りのパイプでした。 喫いたくなったら直ぐに燻らせる様にと、奥様がマッチを一緒に置かれていました。
先生と初めてお会いしたのは40年前でした。
岡山の小橋煙草店にハンドメイドパイプを作る人々が自然に集まり、パイプ談義に花が咲いていました。
先生自作のパイプは目を見張るような洒落たデザインで、皆の目を惹きました。
それも当然で、既にイバルソン、ミッケ、アンネ・ユリエなど著名なハンドメイドパイプ作家の名品を多数お持ちでした。
それらを参考にするのですから洗練されていたのは納得です。
その後、小橋さんが大阪で開催した第7回全日本選手権大会にフリー参加され、それを契機に岡山パイプクラブが誕生しました。
岡山PCに集ったのは、大学教授、医師、保健所長、画家、工芸作家、会社経営者、写真家、喫茶店のマスターなど多士済々。
会員28名中、先生を始め医学博士が5人もいる全国有数のインテリクラブでした。
満場一致で先生が初代会長に推され、日本パイプクラブ連盟に54番目のクラブとして加盟させて頂きました。
先生の会長就任のご挨拶は今でもよく覚えております。
「我々の岡山PCは社会的地位や年齢、職業等一切関係なく、パイプの前では平等がモットーです。パイプの楽しみは喫う、作る、集める等々あります。皆で紫煙を燻らしながらゆとりのある人生を楽しみましょう」
練習会とは言え、ロングスモーキングで岡山PCの中で最初に110分を超えたのは先生でした。
中国地区大会で優勝され、賞状をご自身の右手から左手に渡したこともありました。
月1回の例会に加え、ご自宅で練習会を開いて会員のパイプ喫煙技術向上に寄与して下さいました。
クラブ創立2年目に当時最年少23歳の私を事務局長に指名されました。
私は固辞しましたが、先生は「君の好きな様に運営すれば良い。責任は全て自分に任せておけ」と言われました。
人間の器が大きく慈愛に満ちた方でした。
中国地方の各クラブで持ち回り開催した地区選手権大会。
私は、岡山大会は多くのパイプ愛煙家が気軽に参加できるようにしたいと考え、日本専売公社岡山支店の会議室を借り、パイプを持ち込みにするなどして参加費を安くしようとしました。
先生は「地方大会は続けることに値打ちがある、みすぼらしいと言われても構わない。見栄をはるな。豪華な大会は全国大会の時にすれば良い」と笑って許して下さいました。
岡山PCが全日本選手権大会に初めて参加したのは、東京・帝国ホテルで開催した第8回大会でした。
私を含めて3名が選手として参加し、先生はクラブ会長会議出席のためだけに上京なさいました。
帰りの新幹線の中で、皆で「いつの日か団体優勝し、そして全国大会を開ける様な立派なクラブになろう」と誓いました。
その後、岡山PCは全国大会を2回開催させて頂きました。
全国に幾多のパイプクラブがある中で、同じ会長の下で2回開催したのは、ジョンシルバーPCの佐久間様、青森PCの平木様、砂山先生の3名だけと記憶しております。
先生は、岡山パイプクラブが誕生した翌年、岡山駅を見下ろす商業ビルの6階に婦人科・内科クリニックを開業されました。
商業ビルの中で入院設備もないと1年も持たないだろうと、色々と陰口を叩かれたそうです。
先生は「開業して街医者になると、技術は止まってしまいがちだ。医療は日進月歩。常に最新技術を取り入れ無いと駄目だ。学会に出席する時間を作る為に、いつでも休みを取れるクリニックにした」とおっしゃいました。
爾後、75歳で引退なさるまで38年間続けられました。
告別式の時、2万7千人を超える件数のカルテがあったと伺いました。
名医と評判の方でした。
先生の長年の研究テーマは、子宮頸癌の発生についてでした。
子宮頸癌の原因はウイルス感染であるとする論文を発表したときは、学会で無視されたそうです。
その後HPV(ヒト・パピローマウイルス=Human papillomavirus)が発見され、現在では定説になっております。
子宮頸癌の治療の為、レーザー治療器を大学病院に次いで岡山で2番目に導入されました。
30代で日本産科婦人科学会の理事に就任して以来長く理事を務められ、在任30年表彰も受けられました。
多趣味の方でした。
カメラとゴルフは趣味の領域を超えておられました。
ゴルフの最高ハンディは3。
アマチュアの西日本大会で優勝し、アマチュアの世界大会に日本代表として参加した際のゲストのアーノルド・パーマーとのツーショット写真がご自慢でした。
カメラでは二科展に入賞し会員になられました。
旅行もお好きでした。
外国旅行はアフリカ大陸を除く50数か国を訪問されました。 ヨーロッパに行かれた時は、私達が喫ったことの無いパイプ煙草をたくさん買ってこられ、岡山PCのメンバーもお相伴に与りました。
奥様やお嬢様とご一緒に行かれることもありましたが、大抵はお一人で一つの国をレンタカーで走り回り、素敵な写真を撮っておられました。
先生は、健康には恵まれませんでした。30代の頃から糖尿病、肝炎を患い、その後は肝臓がん、リンパ腫、心臓疾患等々。
現代医学でいう深刻な病名を両手の指ほども持っておられました。
ご自身の病気治療のために様々な学会に出席して最新治療法を見つけ、岡山の大学病院や後輩の病院で、この治療をしてくれと頼んでおられました。
中には成功率が5パーセント未満と言う治療もありました。
「何もしないと死ぬだけ。患者さんにはお勧め出来ない治療法でも自分でするには構わないだろう。本当なら自分はもう5回以上死んでもおかしくない」と笑っておられました。
ご自身の病気を熱心に研究されていましたので、婦人科以外の様々な病気の治療法に明るく、患者さんに適した治療法と病院を紹介され、多くの方々から感謝されていました。
享年77。
告別式では、充実した良い人生だったと言われる方もおられましたが、私にとっては早過ぎます。
至らない私を実の弟のように可愛がって下さました。
目を瞑ると先生の様々な思い出が走馬灯のごとく巡り続けます。
たくさんの楽しい思い出をありがとうございました。
合掌
砂山有生氏を偲んで
日本パイプクラブ連盟会長 梶浦恭生
砂山有生日本パイプクラブ連盟副会長の訃報に接し、悲しみに堪えません。このところ体調が思わしくないともうかがっており、漠然とは承知しておりましたが、いざ現実になると、深い淋しさにとりこまれてしまいます。
砂山さんは岡山パイプクラブを立上げ、全国有数の強力なクラブにと育て上げられました。総会、理事会には必ず出席され、会議が終わると、出席者一同を集め、集合写真を撮られたことも思い出です。また国内の大会に参加されるだけではなく、世界大会や各地で開かれるCIPCの色々な大会にも参加しておられました。
平成21年に田中需氏が連盟会長に就任された際、連盟の運営体制強化を図るため、副会長を地区担当制に改めました。その際に砂山さんは副会長に就任されるとともに、中国・四国・九州・沖縄地区の統括に就かれました。以降連盟の諸活動に参画されるとともに、ご担当地区の活動を熱心に指導されてこられました。中四国大会が毎年必ず開催されるのは、中四国地区の各クラブの努力によりますが、砂山副会長のご尽力によるものが大きかったと思います。
温厚なお人柄で、多趣味であられるともに何事にも深い見識をお持ちの砂山さんを失ったことは日本パイプクラブ連盟にとっても大きな損失です。心からご冥福をお祈りすると共に哀悼の意を捧げます。 |