パイプの愉しみ方
ブライアと優雅に遊ぶ 〜徳富博之の即興的パイプ制作
PIPES AND TOBACCO誌 (2006年夏号pp.20〜24)より
ブライアを熟考する
ブライア・パイプが喫煙用であるのは述べるまでもないが、同時に常に鑑賞の対象でもある。長い間、パイプの美しさの規準はグレインの規則性と鮮明さ、そして既に知られているフォルムを反映するか、部分的に強調されたシェープの魅力に重きをおいてきた。私自身もこのような原則に従ってパイプの美しさを享受していたが、それに疑問を抱いたり拡大解釈しようとは思ってもみなかった。ところが驚いたことに、徳富作品を初めて目にして、新しい形のブライア彫刻に引きつけられ、そこから新しい喜びを受けるようになったのである。
徳富作品は私を刺激し、魅了したのである。時には彼のシェープはデンマーク・パイプのフォルムを思い起こさせるものの、その構成は私が慣れ親しんでいる西欧の均衡、平衡、秩序といったものとは矛盾する方向へ押しやらているのである。新しい徳富作品を目にするとき、しばしば混乱と不安定さを覚えるのだが、その構成をじっくり観察すればするほど、この今までに出会ったことのない輪郭を通して新しい洞察と理解に達するのである。私の初期の混乱は豊な情緒的感情に取って代わり、まるで絵画か彫像を鑑賞するような感覚にとらわれるのである。それ以上に、私にはブライア彫刻から生まれる作家の明確な目的意識、はっきりした個性が感じられる ― 云い換えるならパイプ作家の明瞭な声が聞こえてくるのである。
このような表現は少々凝りすぎたきらいもあるので、私に聞こえるのは徳富パイプが陽気で気取らずに語ってくれる声である、と表現すべきかもしれない。それは、ユーモア感覚や喜びそして面白さにあふれているのである。徳富のブライアは、私には芸術作品や彫刻作品を装っているようには見えない。あくまでも喫うために作られていながら、同時に鑑賞の対象になっているのである。しかも、徳富特有のアートと工芸の混合はまったく彼の独創なのである。彼は、美的感覚と機能性の間に生じる魅力的な中間点に存在する優雅さと安らぎの感覚を十分に知っている。そのうえに、実に日本的な眼識をも持ち合わせているのである。
徳富の作品は相反する要素を表現することが多いが、同時に両方の特性をも維持しているのである。例えば、彼の波をうつようなボウルの縁はブライアを柔らかなクレイ(粘土)のように見せると同時に木の堅さも見せるのである。彼の非対称形は、西欧人の目にはアンバランスな外観としか写らないかも知れない。(例えば、彼のsitter作品のシャンクとボウルは異なった方向へ反り返っている。)しかし、その構成は常に“ダイナミックな安定“を実現している。(事実、彼のsitterはテーブルの上にしっかり立つのである。)
徳富の非対称を理解するには、彼のブライア彫刻が伝えようとしている“動き”の感覚に焦点をあてる必要がある。われわれは目と指で、その折り重なりとねじれの徳富ラインと曲線をなぞり続けるのだが、その楽しい永久運動に慣れてみると、喜びと驚きで突然その常に変化する輪郭が全体像に分裂を生じさせていないことに気が付く。デザイン全体が無理なく美しくつながり合っているのである。さらに、構成要素の流動性のなかに、豊かな安らぎの感覚を呼び起こさせる均衡と完全性をみるのである。しかし、これは決して分裂することなく、変化と安定の間に存在する緊張の中に漂うのだが、視点を変えると黙想的静けさを覚えるのである。
禅にも通じる徳富芸術の特質は、視覚と触覚で注意深くかつ忍耐をもって観察することによって、彼の作品が喫煙のためであると同時に沈思・熟考の対象であるということを、作品の構成が気づかせてくれることである。徳富の美学から得た経験によって、他の作家の作品に対する私の洞察の仕方そしてそこから得られる喜びが永久に変わってしまったのである。いかなる作家もその形作るブライアに付与する創造的ビジョンに対して私の感性を磨く動機が与えられたと云ってよいであろう。したがって、パイプは煙を楽しむためばかりではなく、同時に作家のイマジネーション(創作力)を熟考する好機を与えてくれるのである。作家の創作力は、有用なものを美しいものにする人間の神秘的衝動と関わっているのである。