パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −8−
――大学を卒業して就職なさったのですか?
東宝映画が出来ようとしていた時だった。そこの録音関係の仕事をしてくれないかという話が来ていたが、まだ会社が出来ていない。PCL映画製作所(Photo Chemical Laboratory)という、まあプロダクションのような会社が東宝映画に移行すると言うことだったが、PCLの社員は月給が少ない。東宝映画になってからだとまともな給料が出るからという話だった。そんなこんなしているうちに東芝研究所に来てくれ、月給は80円出すと言う話があったので、東芝研究所に入りましたが、すぐに辞めた。
――どうしてですか?
東芝研究所の先輩社員が皆、よってたかって新入社員に「こんな会社にいたらダメだよ。ミカン箱で下積みはすぐに腐ってしまう」と言う。3ヶ月ほどいましたが、社員皆が「早く辞めろ、辞めろ」というので辞めました。
その後は、今で言うフリーターで、色んなところにアルバイトで行きました。NHKの研究所が(世田谷の)砧村にあったので、アルバイトで行ったね。録音関係の仕事と言うことでしたが、仕事らしい仕事はしなかった。ずっとアルバイトで食い繋いだ。半分、遊び人だったね。
僕は、決まった時間に出て行く宮仕えが苦手で、サラリーマン的な宮仕えが性に合わなかった。2,3年フリーターしていたら、召集が来た。
――召集は、戦争が始まってからですか?
召集が来たのは昭和17年の初夏の頃だった。昭和16年の12月8日に開戦したから、しばらく経ってからだね。召集されて行ったのは世田谷の召集兵の受け入れ連隊、正式名称は東部1900部隊。
野戦砲兵となって配属された先は帝都防衛司令部の高射砲部隊の兵器修理班だった。高射砲部隊は代官町に本部があり、北の丸に司令部がありました。僕らの兵舎は後楽園、今の東京ドームの野球場あたりでした。
兵科としては、僕は技術兵だったが、実際は事務室勤務で、ほとんど事務の仕事ばかり。兵器修理はしなかった。僕は部隊の構成などを詳しく把握していたから、僕がいなくなると事務に支障を来たすというので、他の部隊に転属はされなかった。
〔続く〕
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)