パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −9−
軍隊の事務の仕事では、隊長の命令の下書きなど全部やりました。士官候補生の試験を受けろと言われたが、(合格すると)見習い士官になれるが、兵隊も階級が上がって下士官、将校になると兵役の年限が長くなるので、断って受けなかった。
――下士官にも進級せず、ずっと兵隊だったのですか?
そう。最後まで兵隊のまま。階級は兵長だった。ただ、兵長になったのは早かった。(二等兵で)入隊して11ヶ月で兵長になったのは記録だったらしい。
――兵隊として優秀だったわけですか?
事務室には、各部隊から兵器修理の依頼がたくさん入ってくる。他所の部隊に行くことになるので下士官がやってくる。こちらが一等兵のままでは釣り合いがまずいので、早々に兵長に進級したわけです。
内務班では毎日殴られた。古年兵にやっかまれて(こちらは階級が上等兵より上の兵長なのに)一等兵に殴られた。兵隊は階級ではなくて、メンコ(飯子=食器)の数(何年、兵隊の飯を食べているか)だと初めてわかった。
軍隊には慰問団が慰問に来るが、僕は途中でその慰問団係となった。僕は浅草の出身だから芸能の関係に興行師などの知り合いがいるので、何を頼むのに、どこが良いかよくわかっているから、その仕事が主になった。そうしたら古年兵が遠慮していじめなくなった。後では殴られることはほとんどなくなった。
――陸軍で慰問団係とは珍しい仕事でしたね。
兵隊は夜9時に消灯した後は、寝ているという建前だが、実際は9時過ぎてから色々慰問をやりました。一番受けたのは映画だった。内輪の上級将校はそのことを知っているが、代官町の部隊本部には届けを出さないでやった。
当時、(東京)内幸町に大阪第二ビルというのがあって、戦争になる前は海外の色んな映画会社の日本の出先会社が集まっていた。パラマウントやらコロンビアやらディズニーやらの代理店です。大阪第二ビルの地下に金庫があって、そこに映画フィルムが保管してあった。映画フィルムの所有権は敵産管理所。その洋画を貸し出してもらって兵舎で上映会をやった。アメリカ映画をよく上映しました。「風と共に去りぬ」(1939年製作、セルズニック・インターナショナル)は日本では戦後(昭和27年)の封切りということになっているけど、戦時中に上映会をやった。ガリバー旅行記(1939年製作、フライシャー・スタジオ)も上映会で皆に見せた。
――字幕付ですか?
いや、そのままの字幕無しです。大阪第二ビルの敵産管理所には上等兵の時から行き始めた。僕は戦争前から、大阪第二ビルには外国映画会社の出先があると知っていたからね。海軍さんなんかはよく来ていて、海軍さんは来るのは皆将校。僕は兵長だから、やや片身が狭かったな。
〔続く〕
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)