パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −10−
兵舎の慰問の映画は、最初のうちは日本のニュース映画をやっていました。そのうちにニュース映画とニュース映画の間に、ディズニーの短編映画、5分から10分くらいの短い映画を入れた。そうしたら皆、喜んで、段々と長い映画になり、劇ものをやるようになった。
古参兵で野戦をくぐって下士官まで進級したが、銃剣で上官を殴ったか何かの「用兵器上官暴行罪」(陸軍刑法第62条、第69条)で降等されていた二等兵がいた。ねじくれた人生の男だったが、それが悪い奴で、いつも僕をつかまえて毎日ビンタした。何の理由もなくても、因縁をつけてビンタだ。僕が映画担当になると、すれ違った時に「今度、いつやるの」と態度がまろやかになった。
余談ですが、軍隊は外国語が許されないおかしなところで、おかしな言葉が多かった。たとえば、タイヤのパンクを直すのに箆(へら)を使うが、その箆のことを護謨輪着脱練桿(ごむりんちゃくだつれんかん)と言ったり、ネジのことを螺子(らし)と読んだりね。僕は、戦争前から自動車が好きで、よく自動車をいじっていたから、自動車関係の部品や用具の翻訳を仰せつかったこともあった。
――召集兵としては、比較的楽な軍隊生活という印象を受けますが。
東京への空襲はたまにはあったが、戦争末期になるまではたいしたことはなかった。(昭和19年3月に)インパール作戦が始まって、インパールを陥落させると、僕が所属していた兵器修繕部隊も含めてインド派遣軍を編成することになっていた。僕は司令部に出入りしていたので、軍の内部の情報が耳に入り、分かっていた。インパールが陥落しなかったからインドに行かなかったが、その意味で命拾いした。もし行っていたら、途中で乗っている輸送船が米軍の潜水艦にやられて海没していただろうね。
僕ら兵隊は仲間内では軍隊を「運隊」(うんたい)と言っていた。ちょっとしたことで運命が180度違ったことになるからね。
――兵隊時代には、たばこは何を喫っていましたか?
たばこは「誉」(ほまれ)を喫っていた。軍隊ではたばこには困らなかった。酒保(しゅほ、兵営内売店)で扱っていたので売ってもらった。「誉」は20本入りで6銭。ゴールデンバットは10本入りで7銭だったね。「誉」はクズのたばこ葉で作っていてうまくなかったね。兵隊ではパイプたばこは買えないので、「誉」をほぐしてパイプに詰めて喫っていました。
事務室勤務では大尉が上官だった。僕はパイプを喫いながら仕事をしていた。他の兵隊でパイプを喫っていたのはいなかったな。
――コーヒーは?
コーヒー豆を噛んで(味わって)いた。外泊の時は持ち帰ったコーヒー豆を一粒、一粒食べていたね。
〔続く〕
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)