パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

関口一郎 パイプと吾が人生を語る  −11−

兵隊の生活は面白い。(昨年、)「最高齢プロフェッショナルの教え」(徳間書店、1470円)という本が出た。僕を含めてその分野の最高齢の色んな人が書いている、若い人へのアドヴァイスの本です。その本が良く売れて、増刷になり、今年も印税を5000円くれた。

この本が最近、韓国の雑誌で取り上げられて、韓国から取材に来る。韓国では僕の兵隊時代のことに関心があるらしい。「兵隊生活は無駄にならない」という僕の話を、韓国の兵隊連中に読ませようということだろう。軍隊は、私的制裁が無ければ良いところだね。兵役で2年間ああいう生活をするのは良いことだ。

戦争も末期になりマリアナ空軍基地からB29の空襲が増してきた。司令部から空襲状況伝達が電話で来ていた。僕はこの伝達を受け、部隊内の一同に知らせる係、電話当番を命ぜられた。

僕は部隊の中で一番声が大きかったので、適任だと思われたのだろうね。とはいえ、部隊の隅々まで肉声で伝達するには無理というもので、そこで、早速、自宅にあった電蓄のアンプから増幅部を外して拡声器に改造し、大音量で伝達ができた。

陸軍では電話機を使う用語は「もしもし」ではなく「連絡、連絡」と言う。たとえば「レンラク、レンラク。今日の鯨(B29)は鰯(グラマン戦闘機)連れている。注意」という具合だ。

――東京大空襲はどうでしたか?

昭和20年3月10日の大空襲で、僕は命拾いした。この日衛兵司令勤務で衛門にいた。(米軍は)焼夷弾を束にして、シャフトの先に重りをつけて投下した。空中でバンドが解けて焼夷弾がばらばらに散らばって落ちてくる。僕が立っていた付近で凄い衝撃を感じたので後ろを振り向いたら、セメントの重りが付いたシャフトが地面に突き刺さっていた。立っていたところから1メートルもなかった。だから命拾いした。この日のB29は超低空飛行で焼夷弾投下後弾倉の窓を開けて下を覗いていた。火災の火の赤さで米兵の顔が赤鬼の様に見えていた。

兵隊はさすがだなと感心したのは、落ちてきた焼夷弾を兵隊が全部消したこと。(兵舎には)車廠(ガレージ)が3棟あったが、1棟は焼けたが、残りの2棟は砂や泥をかぶせて火を全部消した。僕は事務室勤務だから、どこの方面に何人の兵隊を車に乗せて(救難活動や遺体の収容活動に)行かせるかということを手配した。(空襲の被害が甚大だった)本所や深川方面に行かせました。

収容活動を終えて兵舎に帰ってきた連中は、悲壮な表情はしていないが、(空襲で亡くなった人たちの)死臭が軍服に染み付いてすごく臭かったな。

〔続く〕

(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)

日本パイプスモーカーズクラブ