パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −12−
――戦後、復員なさったのはいつですか?
昭和20年の9月には復員した。後楽園から浅草に復員だから、簡単なものです。家は空襲で焼けたが、家族の誰も被害を受けていなかった。関東大震災のときは、大八車に家財道具を積んで(上野の)車坂の線路の近くまで持ってきて、上野の山の下に置いた。火事が済んだら、焼けた跡にすぐ家財道具を持ち込むわけだ。今度の戦争のときは人手もなくなって、そんなことは駄目だったね。
――戦後、コーヒー店を始められたわけですが、どういうきっかけですか?
僕はコーヒーの研究は学生時分からやっていた。学生だから試験勉強で徹夜になる。眠気覚ましにはコーヒーが一番良い。コーヒー店は夜中はやっていない。自分で簡単にコーヒーを淹(い)れられると良いなと思って、デパートで道具を一揃い買って、夜、コーヒーを作って飲んだ。自分でやってみたが、不味くて飲めない。それで研究した。同じコーヒーなのに、店のコーヒーは美味しく飲めるのに、自分のは不味い。どうしてだろうと疑問に思って、コーヒーにのめりこんだ。
色々とコーヒー関係の商売をやっているところに(秘訣を)聞きにいくなど、のめりこんでやりました。そのうちに下手なコーヒー店よりも、自分で淹れた方が美味しいというレベルに、学生時代に辿り着いた。
――復員してすぐコーヒー店を始められたわけではないのですね。
終戦になって、戦友5、6人と始めたのが、映画館の仕事だった。映写機を映画館に納める仕事です。興行師が焼け野原の中に映画館を復旧した。その頃、娯楽が無いから、映画は凄い人気だった。映画館が焼け跡にどんどん出来た。
――映写機を自作なさったのですか?
いや。戦時中に金属のものは供出させられていたが、(都内中央区の)月島の隣の十号埋立地に廃品が山のように積んであった。手をつけないまま野晒しになっていたわけだね。そこに行くとお寺の鐘など、金属類がたくさんあった。その中に映画館の映写機が落ちていた。それを拾ってきて、ギヤなどを作って修理して売ったわけだ。
――映写機の販売は順調でしたか?
廃品回収で、原価は無いから丸儲け。儲かって儲かって仕方がなかったね。当時は少額紙幣しかなく、確か10円札が一番高額紙幣だった。(作業場に)借りている場所に大きな金庫があったが、金庫に入りきれないほどの札束があったから、金庫の上に札束を無造作に積んで置いていました。商売としては順調だったけど、悪い奴にお金を持ち逃げされて酷い目に遭いました。
〔続く〕
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)