パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

関口一郎 パイプと吾が人生を語る  −13−

――映写機の仕事が、コーヒー屋になった経緯は?

当時、(映写機販売先の情報を売って)鞘取りをして稼ぐ口利き屋が、客として僕らの会社に出入りしていた。僕がサービスにコーヒーを出していた。そのうちに会社がおかしくなって倒産したら、その連中がコーヒー屋をやれと言う。

僕はコーヒー屋をやるつもりは全くなくて、次の段階では映画の仕事をしようと思っていた。その頃になると、映写機をメーカーが作り始めたので、埋立地に落ちている映写機を修繕して売る仕事は先が見え始めていた。

僕はストロボライトの研究をしていたので、次の段階ではストロボライトをやろうと思ったが、なかなかスポンサーが見つからない。その当時、五反田にストロボ研究をしている人がいた。その人の会社は後にカコストロボという会社になった。僕はコーヒー屋をやるので、ストロボからは手を引いたから、ストロボの仕事はカコに委譲した。カコストロボは後に倒産しました。日立製作所系列にストロボの技術を持ち込んだね。

最初、コーヒー店は西銀座の外堀通りに出した。店の名前は「アルカロイド飲料研究所」。始めた店が路地の奥、傘が差せないほど狭い道の奥だから、営業許可が下りないので、そういう名前にした。だから最初はヤミでスタートした。昭和23年だった。

その後、色々と役所に働きかけたが、どうしても営業許可にならない。当時は戦後まだ3年。世の中が混沌としている時代だった。僕は、役所関係はコミッションで動くということを体験した。どうしても営業許可が下りないので、洋モクを1カートン役所に持参して、表向きは渡せないので、席に置いて帰った。

そうしたら、やっと役人が法律の盲点を探してくれて、営業許可になった。当時は、狭い路地の奥は規則で営業許可は出ないのだが、僕が借りた店は戦災で焼けていなかった。だから非戦災家屋という扱いになり、戦前の古い規則が適用できることを教えてくれた。最初からそう言ってくれれば良いのだが、僕がコミッションを出さないので、役所は規則の盲点を隠していたわけだ。

会社の名前は、コーヒーの淹れた色の理想が琥珀色なので、琥珀珈琲株式会社という名前で役所に届け出て、屋号はランブルとした。

当時、銀座で一番美味いコーヒーは一杯90円で、そういう店が2、3軒あった。僕は一杯100円という最高価格でスタートした。100円という値段にしたのは、コーヒーの材料の仕入れが違うからです。

他のコーヒー店は米軍のコーヒーの横流しを使っていた。米軍の横流しコーヒーは問題にならない。コーヒー豆の焼き(煎り)が浅いので酸っぱみが強くて飲めない。僕はコーヒー豆をヤミで仕入れていたから一杯100円でも引き合わない位だった。だから客に喜ばれた。喜んだ客が最敬礼して帰ることもあったね。

アメリカのコーヒーはもともとは紅茶の代わりだった。ボストンティーパーティー事件が独立のきっかけになったように、当時のアメリカ人は旧大陸から移民で渡ってきた連中で、主にアングロサクソンだから、紅茶を飲んでいた。それが紅茶をボイコットしたから、紅茶が飲めない。そこで紅茶の代わりにコーヒー豆を浅く煎って飲んでいた。

米軍横流しコーヒーを仕入れた業者が、欧州のコーヒーは焙煎が濃いので、そこまで色を出さなくてはならないと思って、コーヒー豆を煮出した。だから飲めたものじゃなかった。だから僕のコーヒーは喜ばれた。

米軍の衛生取締班が、シガレットは肺がんの原因になると発表した。それで、たばこ喫いがぞくぞくとシガレットからパイプに乗り換えて、パイプが流行り出した。最初のパイプブームで、パイプはどこでも売り切れになるほどだった。

〔続く〕

(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)

日本パイプスモーカーズクラブ