パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −14−
ランブルの店では、僕はパイプを喫っていた。朝鮮戦争が昭和25年に始まったが、店のお客さんでパイプを喫う共同通信の記者が朝鮮戦争を取材に出かけるという。パイプはごろごろして持ち運びに困るというので、腰に下げるサックを作ってあげたことがあるね。
その頃から、登山家で画家の岡部一彦さん(JPSCの初代世話人代表、日本パイプクラブ連盟第二代会長、漫画家の岡部冬彦さんの兄)らパイプを喫う客が、常時5〜6人店に来ていました。岡部さんが銀座の菊水の内藤幸太郎さんのところによく行くので、僕もくっついて行ったりしているうちに、パイプクラブを創ろうという話が持ち上がった。昭和37年頃だったかな。
JPSCは岡部さんや内藤さんが中心になって、話が持ち上がってから5年がかりで立ち上げた。発足前のパイプ愛好家の横のつながりについては僕はあまり知らない。岡部さんや登山家の槙有恒さんやパイプ愛好家が何人かいて、それに僕の釣りの友達の永田一脩さんらランブルに集まる人達や、山と渓谷社関係のパイプを喫う人などが20数人いて、設立発起人には30数人が名を連ねました。
日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)の設立は昭和42年(1967年)4月26日。発会式の会場は築地スエヒロだった。発会式に集まったのは13人だった。発会式では、日本専売公社のお世話にならずに、民間人の力で独立独歩で運営していこうということを申し合わせ、専売公社やたばこ業界関係者は会員に入れなかった。
戦後の第一次パイプブームの際に専売公社が丸抱えで「日本パイプクラブ」を設立し、著名文化人が名を連ねたが、専売公社が手を引き始めると数年であえなく解散になった。この轍を踏むまいとの考えからです。たばこを喫うパイプ愛好家の親睦クラブという意味で「日本パイプスモーカーズクラブ」と名前も決めた。
発会式に集まった13人で、僕が知っている顔は岡部さんと内藤さんくらいだった。永田一脩さんは発起人に名前を連ねていたが、発会式には出席していない。そういう人が何人もいた。うちのランブルのお客さんに結構そういう人がいました。JPSCは入会申し込みしても、入会金を払い込むまでは保留で、一年経っても入会金を払わなかったら会員にしなかった。
JPSCの設立理念は、パイプの前にはあらゆる人が平等ということで、後に会員番号になった発会式の席順も籤で決めました。マッチ箱に1から13までの数字を書いた札を入れて、選ぶのです。内藤さんが1番で、僕が13番だった。
余談だが、発会式は26日だが、僕は26という数字に縁があって、誕生日は5月26日、無線雑誌の懸賞に入賞したのが5月26日、第2回全日本パイプスモーキング選手権大会で僕が優勝したのも5月26日だった。
今の銀座のランブルの店は、土地の持ち主の人が最初、小料理屋の店にしようということで造作したが、その人が完成前に病気になって小料理屋ができなくなった。そこで、せっかく店を造ったから誰かに貸そうということで周旋屋が僕のところに来た。その日がたまたま26日だったから、僕は迷わないで二つ返事で借りることにした。今でも借りています。家賃が高いから、やっていくのが大変だ。
〔続く〕
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)