パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −17−
昭和47年にJPSCの創立5周年記念事業として銀座東急ホテルで「全日本パイプスモーキングコンテスト」を主催しました。競技参加者は60名。僕は受付係を仰せつかった。だから競技には参加できなかった。その大会ではJPSCの白木原明宏さんが優勝したね。大会の後、パーティーを開催したが、日本専売公社の北島武雄総裁が駆けつけて、祝辞を述べてくれました。
翌年の昭和48年にフランスのサン・クロードでパイプスモーキングの第2回欧州選手権大会が開催されましたが、この大会に初めて日本から7人の選手が参加しました。参加することになったきっかけは、サン・クロードからパイプを輸入していたJPSC会員の長島雅英さんが情報を得て、例会で日本からの参加を提案したことによるものでした。
面白そうなので、それじゃあ、参加してみようということになり、参加者の選考会を開催しました。選考会はJPSC主催の第2回全日本選手権大会での1位から6位までの入賞者6名と、各クラブの推薦者9名の計15名で行いました。申し遅れましたが第2回全日本選手権大会で僕が68分20秒で優勝した。この記録は今も誰も破れない最短時間です。
選考会の結果、選考会で一位になった東田正三さん(函館PC)が派遣選手として選ばれ、JPSCが旅費の一部を提供しました。加えて各クラブに参加者を募り、JPSCから柏木大安さん、村上征一さん、柏原良三さん、山田重雄さん、白木原明宏さん、ジョン・シルバーPCから伊原明男さんの計7人が欧州選手権大会に乗り込みました。
国際大会初出場、しかもゲスト参加ながら団体準優勝の好成績を収めました。大会に先立って欧州パイプクラブ委員会(CIPCE)の理事会が開かれて、日本からオブザーバーとして誰かを出せといわれたが、フランス語ができるメンバーがいなくて、通訳としてベルギー事務所から来てもらっていた日本専売公社の職員に代わりに出席してもらったと聞いています。
ところが、日本が参加してきたのだから欧州パイプクラブ委員会(CIPCE)を国際パイプクラブ委員会(CIPC)に名前を改めよう、そして次回の3年後の大会(当時は世界大会は3年に一度)は日本でどうかということになった。日本のパイプクラブからの出席がない場所で、専売公社の職員が「ウイ」と答えてしまったというのだそうです。この職員は本当にフランス語が判っていて返事をしたのかは疑問だが、帰国してからJPSCでは大騒ぎになったことを憶えています。
専売公社が勝手に答えたのだから、専売公社にやらせろとか、断れなどと、収拾がつきそうにもなかった。日本選手団長として参加した柏木さんの東大の同級生が専売公社の総務理事(製造担当)だったことから専売公社に全面協力を約束させ、専売公社職員ながら例外的にJPSC入会が認められていた村上征一さんを公社側の担当にしてもらうことで、やっと受諾することになったのです。
ところが、日本での開催は、日本のナショナルクラブ組織としてのパイプクラブ連盟の結成が条件で、連盟の主催でなければならないことが分かり、昭和49年にJPSCが全国のパイプクラブに声をかけて計15クラブで「日本パイプクラブ連盟」(PCJ)を設立しました。初代会長に柏木大安さん(JPSC)、事務局長に片岡厚一さん(JPSC)を選出しました。
PCJが設立されたのを機に、これまでの2回をJPSCが主催した全日本パイプスモーキング選手権大会の開催をPCJに委譲し、昭和49年の第3回全日本大会以降はPCJの主催で開催しています。
〔続く〕
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)
あわせてPCJ34年の歩みもご覧下さい。
http://www.pipeclub-jpn.org/conpetition/ayumi.html