パイプの愉しみ方
JPSC関口一郎代表世話人白寿及び創立45周年祝賀会を開催
日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)の関口一郎代表世話人の白寿とJPSC創立45周年を祝賀する会が11月10日に東京・内幸町のエスカイヤクラブ日比谷店で開催されました。
その席で、関口代表世話人が、出席者に祝賀会の答礼挨拶に代えて、JPSCの草創期の思い出などについて健筆を揮って一文を寄稿しましたので、全国のパイプ喫煙愛好家の皆様にご紹介いたします。
また梶浦恭生JPSC世話人が、JPSCの創立以降45年間の歩みを略史の形でまとめて、関口氏の寄稿文と一緒に参加者に配りましたので、これも併せてご紹介いたします。
JPSCは我が国でもっとも歴史の古い名門パイプクラブであり、東京・銀座を拠点に活発な活動を続けています。
JPSC発足45周年に寄せて
昭和23年「コーヒーだけの店」としてランブルは西銀座の狭い路地奥の10坪程の小さなスペースで声を上げた。
幸い評判も良く遠くからお客様が、わざわざ訪ねて来られ、中には有名な識者も見えていた。私が店の一隅で旨そうにパイプを喫うのを見てか、パイプを喫うお客がポチポチと集まるようになった。出版、報道、映画、演劇関係者など多かったが、中には医者もいた。
当時はパイプタバコは主にアメリカ産が圧倒的で、スモーカー同士は情報はもとより現物を交換をして喜んだり、羨ましがったりした。店の開業後10年程が経過すると一騎当千のパイプ族が集うようになり、一寸意味が違うが一種の梁山泊のような様相であった。
そこでパイプスモーカーのクラブを創ろうと一部のものから提案があり、まず菊水を中心に話が進み、昭和42年4月に発起人13名で日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)を旗揚げをした次第。
毎月入会の申込みが多く、翌年に37名となり、毎月の例会でスモーキングコンテストを実施するようになった。毎年メンバーズパイプも配布した。会の季刊誌「PIPE」でクラブ入会を呼び掛けたところ、入会者が続々と増え、コンテストをやるには会場が手狭になった。そこで菊水の内藤氏のご母堂とそば屋のよし田の女将が知り合いと聞き、口をきいて貰って、会場のよし田そば屋を確保できた。
コンテストの採点方法は自動車関係の大久保敦彦氏のモーターグランプリ方式を採用した。 昭和47年の創立5周年記念事業として全日本スモーキングコンテストを実施した。
現行の申し合わせに通じる約束ごとを含めて気付いたことを書く。
全国大会、ローカルの大会でもタバコの量は3gなのにJPSCの月例コンテストは2gでやっている。理由はよし田そば屋の時代、店の閉店時刻が9時だった。3gでコンテストすると70分位吸うのがいて、閉店とにらみ合わせてやきもきする。そこで2.5g位ならと暫定的に決まった。後で2gに決まった。
一時期コンテストの参加者が2、3名と少なく、しばしば例会は流会となった。それが理由で、出席を促す意味で流会の場合は出席者には2点となった。出席者が少ないからよし田そば屋が会場に貸すのを嫌がるようになった。
座敷を一間貸切にすると2、3名では売上が少ない。それでなくとも注文が「もり」一つで帰る人もいた。しょうがなくJPSCの懐から3,000円位包んでいたこともある。
1971年よし田そば屋から最后通告がきた。「座敷は閉店後、支店を含む従業員の宿舎になる。従業員からタバコの脂臭くて睡れないと苦情がでている。悪いがどこか他でやってください」と言われた。
そこで四ツ谷の喫茶店ルノアールに場所替えした。立地が良くないのか会員の参加が少ない。そこで、どこか良い処はないかと捜すことになり、現在のカフェジュリエは偶然見つけた。ベリーグッド。
何分補足の補足なので、気付いたことを若い会員に知って貰いたい、あれやこれやになったことをお許し願いたい。
入会のとき会員番号を決めることになっている。昔申込者が多かったとき、やたらと会員を増やすと整理がつかなくなることを憂えて100名で止めることとし、通算延べ番号にすると配布のパイプに刻む余地がなくなるので99で止めた。この会員番号99の勝又昇一先生(医師)は今年亡くなった。行年91才。
入会した新会員の会員番号は欠番から本人の希望を聞いて決める。配布する数が多くなると海外のメーカーでも同一の型を100本作るのは無理とのことで毎年のメンバーズパイプ配布は止めた。
45年間、会史上忘れられない人物は、なんと言っても松山荘二氏だったと思う。季刊「PIPE」を創刊してから、永い間一人で会誌を休刊なしで継続した。亡くなるまで豊富な知識に裏打ちされた内容のある記事で、会誌から多くの会員は勉強したことと思う。よく会が永年継続できたことは、ひとえに会誌の発行があってのこと、只今会誌が休刊しているが、我がJPSCは多士済済だから、何とか誰か復刊を手助けしてくれないかな。
会誌のことでは毎号の表紙を飾った写真家のことも一言触れたい。会員の誰彼を不定順で顔写真を撮影し、会誌に掲載した。多くの会員は楽しみに自分の番が来るのを待っていたものだ。因みにその写真家は畑野進氏だが亡くなった。
私が会員の内でユニークだと思う人物は今は亡き大森一生翁を挙げる。歳が近かったせいか、うまが合ってか奇怪な手紙を頂いたことがあった。なんといってもスモーキングコンテストの喫煙タイムが圧倒的に強かった。生涯名人位を会から差し上げ、翁の記録は除外してしまった。それまでの優勝回数が27回もあり、他をよせつけない程だ。
大森翁が強過ぎたので参加者の入賞を平均的にするため時間ハンディ法を採り入れてみたこともあったが止めた。大森翁は月例のコンテストでは毎回新記録を出すほどの人であるが、外部の大会では一度も優勝したことがない。よし田そば屋のように畳敷きでないとだめだった。冗談に会場に畳敷きを持ち込もうという話も出た。
本会に例外の人物が一名いた。白木原宏明氏の世話人当番の時、氏の秘書で白木原氏の代理で世話人の仕事を永くやって頂いた入江勤さんで、この方はタバコを喫わない。念のため。1990年頃に教会の要職に栄転されたため、会を辞められた。
ユースドパイプオークションは会の人気行事として定着している。オークションは創立して早期に既に始めている。会の年表によると、発会の翌年1968年3月に試みられている。正月と7月の年2回の定着は1977年からで、それまでは不定期にやっていた。初めはパイプのみであったが出品数が少ないので喫煙関係なら良いということになり、その後、タバコ関係でもなくても宜しいということになり、それから年2回の恒例行事となった。
競売のフリ手は初期から松山氏が受け持っていたが、亡くなってから会の名物男、外川広洋君が面白おかしく上手に運営していた。他の会員ではなかなかできないだろう。その意味では外川君は逸材の一人である。
外川君が昨年突然亡くなり一寸困ったことになった。彼の行動は独善的で一人でツッパリしているように感じた一部の会員から反感を持たれていたようだった。彼としては良かれと思われた事柄や新しい着想を思いついた時には私の処に相談に来ていた。細かいことによく気付き、骨身を惜しまず懸命に行動していた。梶浦事務局長の良き助手を務めた。
1983年に発刊した初版「パイプ大全」は今や貴重本として評価されている。この本の発行は2、3年前から準備にかかり、会員の内から手分けして執筆分を決め、それぞれ得意の受け持ちを引き受けて着手した。
私はおこがましいが、タバコの缶とタバコをカラーで撮るようにと仰せつかった。タバコの缶を撮るために現物を集めねばならず、苦労したが、ついに200個ばかり集めた。この中身のタバコはいつの間にか全部吸ってしまった。この本は松山氏がいなければ出来なかったのではないでしょうか。
JPSCの会則には会員は男性だけとはなっていない。ごく初期に柏木大安氏が1名の婦人を連れてきた。入会希望者で柏木氏のお嬢さんの洋裁の先生だという触れ込みだった。岡部氏が絶対反対と言った。戦后女性領域が男性の領域を犯し始めて、今や男性領域は髭剃りとパイプを吸うことの二点しか残されていない、パイプを取り上げられては立つ瀬がない、とこぼしたが、皆の総意で入会された。
このご婦人が市川澪さんで、後日、世界選手権大会で婦人の部で優勝、時間記録は2時間2分12秒は歴代2位の輝かしいものだった。婦人の会員がいると、皆行儀が良くなるといわれている。
梶浦恭生氏について一言。外川君の処にパイプの参考資料などが多数集められていたので、遺された遺品をオークションにかけて整理をお願いした。そうこうしているうちに日本パイプクラブ連盟の田中会長がある事情のため突然辞めることになった。パイプの世界は多士済々とはいえ、なかなか後任が決まらず、事務局長の梶浦氏が会長を引き受けざるを得なくなった。JPSCの事務局ばかりか連盟事務局長等を一手に引き受けて下さり、おまけに今までJPSC旅行会の下見や会のスケジュール管理、総会の時のビンゴの賞品の掻き集めなどの雑用に加えて対外折衝等々、まことにきりが無い多忙で申し訳がない。それに目立たないが、陰で支える奥様の功績を見逃してはならないとおもう。遅れ馳せではあるが総会の折に、会から感謝の意を贈ることを提言する。
昭和42年に13名で発足したが、会員番号No.1は菊水の内藤氏で、私は13番で頭と尻尾が残っていましたが、内藤さんが2週間前に急逝され、とうとう創立会員は私1名だけになりました。
時々思うことは、あれだけ喫煙は身体に悪い、肺癌の原因と言われているのに、退会者を含めて肺癌で亡くなった人はこれまで“0人”なのが不思議だ。日本パイプスモーカーズクラブ(1967〜2012)略史 ※クリックすると、PDFがご覧になれます。