パイプの愉しみ方
パイプ開発者のモノローグ 第一話 「出会い」
私は勤務先の大学での就職指導で飯を食っていますので、先ずは自分史から。
今だから白状するけれど、煙草との付き合いは17歳の夏から始まりました。 (ごめんなさい)
当時、裏磐梯の父の所有する土地で、やりもしない受験勉強合宿を8人の仲間と一緒にテントを張って行いました。 (その時からです。はい)
それまでは、皆のすなる隠れ喫煙なるものを、どんなに誘われてもかたくなに拒んでいましたから偉い。(でもないか)
我が家は母がヘビースモーカーで、父は無煙派でしたから、煙草は女性が吸うものだと、小さな頃、しばらくそう思っていました。
その母がおめかしして出かける時に連れて行かれると、ある儀式が京王帝都電鉄井の頭線の中でいつも始まりました。たしか永福町のあたりから渋谷までの区間でした。
母は、白粉のような、ちょっといい香りのハンカチを取り出し、口元で濡らすと私の身繕い(猿なら毛繕い)をやにわに始めるのでした。
これが、申し訳ないけど、嫌でしたね。
だって、煙草臭いんだもの。
そして母が出かける先には、たいてい映画館がありました。昭和の初期の時代をモダンガール(所謂 モガ)、今で言うキャリアウーマンとして過ごしていた母親は大の洋画ファンで、その大好きなハリウッド映画を見る事が出来なくなった先の大戦を憎んだと言っていました。
この映画館も苦手でしたね。
当時の映画館は館内は喫煙自由でした。
当時の映画の画像は、煙草の煙をようやく透過してスクリーンにたどり着くような状況で、映画そのものは余り記憶はありませんが、煙の中を踊る光の束を何かずっと眺めていたような気が致します。 (当時から屈折した人生が始まっていたんだな……きっと)
そして大抵は、話の半分ぐらいのところで煙草と人いきれにむせて場外脱出に至っていました。
映画のストーリーがほとんど記憶にないのはそのためもあるでしょう。
と言う事で、私の嫌煙人生は、誕生以来わずか17年余りで終止符を打ったわけです。
そうそうキャンプの話でしたね。
裏磐梯の中ノ沢温泉からすぐの場所に、沢地に開発された温泉付き別荘地がありました。まだ誰も実際には別荘を建てておらず、単なる草っ原。区画整理の杭が打ってある程度の状況で、父の地所のみ、2坪の小さなプレハブ小屋が建っていました。
ここで盛大なる勉強会ではなくて、麻雀強化合宿が始まったのです。
午前中2時間だけ、申し訳程度に林の中にそれぞれ散って参考書のページを眺めたのですが、もともと大学の附属高校とあって、その大学にはエスカレーター式に何とか入れるという安易さがあって、勉強に没頭したい奴は8人の仲間の中には端(はな)から誰もおりませんでした。
昼飯は、温泉宿の裏から入れてもらって、台所で賄い飯を分けてもらうか、界隈で唯一の肉屋でコロッケを大量に買い込み、飯盒で炊いたお焦げ飯とともに腹に収めたりしました。
賄い飯のごちそうは鶏のネック煮込みでした。ここで頸椎、脊椎の生物実験も出来たわけです。
さて、この合宿勉強会では、私に魔の誘いが毎晩のようにありました。
「吸え、吸え」という半ば脅しのような、囃し立てが7人の仲間から毎晩、日本酒「栄川」の吐息とともに私に襲いかかったのだからたまらない。
「紺矢、吸っちゃえ、吸っちゃえ、大丈夫なんだからさ」
中でもリーダー格のMの言葉が強烈なる動機付けとなりました。
意を決して、初めて吸った煙草が金色に輝く「やまと」でした。
そして私は倒れました。