パイプの愉しみ方
Nitra Pipe Club 正会員就任旅行記 その3
ニトラ滞在3日目は、ゆっくり市内観光をしてお土産を買ったり、美しいドナウ川支流の森林地帯をのんびり散策して過ごそうと考えていました。ところが、前日の夜、Michal Koza Sr.、Maros Strazanec両氏から「銀山に行こう。見せたいものがあるから朝から付き合え」とのお誘いがありました。「銀山? はて銀山で一体何を見るのだろう?」と訝りながらも、折角のご厚意ですので、甘えることにしました。
私たちがMichal Koza Sr.、 Maros Strazanec両氏のドイツ製高級車二台で向かったのは、Banska Stiavnica(バンスカー・シュチアヴニツァ)という地域。ニトラから真東に約二百キロメートルの山岳丘陵地帯です。行く前は予備知識が皆無だったので、これから知識として申し上げることは、車中で色々と教えて頂いたことと、帰国後に調べたことが、ごちゃ混ぜになっています。
美しい田園風景が両脇に広がる高速道路を1時間半も走ると次第に、小高い丘や山並みが両脇に目立つようになり、道が登り勾配になっていきます。Michal Koza氏が「昼ご飯にはやや早いけど、スロヴァキアの本物の郷土料理を食べさせる店があるから、入ろう」「ニトラのレストランで提供する料理は伝統的なスロヴァキア料理じゃないから、あなた達に本物のスロヴァキア料理を知って欲しいのです」というので、道路脇の山小屋風のレストランに入りました。多くの客で繁盛しており、屋外の芝生にテントを張ったテーブルが空いていたので、そこに座りました。 料理選びは両氏に任せました。最初に出てきたのはBryndzové halušky(ブリンゾベー・ハルシュキ)という料理で、摩り下ろしたじゃがいもと小麦粉をゆでて作ったダンプリングと牛乳で溶いた羊乳のチーズソースを絡めたもの。次がStrapačky(ストラパチキ)という料理で、すり下ろしたジャガイモと小麦粉をゆでて作ったダンプリング、キスラー・カプスタ(醗酵キャベツ)、ベーコンを合わせて炒めたもの。スープはŠošovicová polievka(ショショヴィツォヴァー・ポリエウカ)というレンズマメのスープ。
いずれの料理も量はたっぷりありましたが、要は炭水化物に適当に味付けしたものばかりです。従って味はいささか単調で、お腹がとても空いていたら美味しく感じられるかな、というのが正直な実感でした。私たちの箸があまり進まない様子をじっと観察したMichal Koza Sr.氏は「スロヴァキアはオーストリア・ハンガリー二重帝国領の時代以前からずっと貧しい地域で、スロヴァキア人は昔からこういう芋と穀類ばかりの材料を工夫して味付けし先祖代々食べてきたのです。私もこうした料理を毎日毎日食べて育ちました。これが本当のスロヴァキアの伝統料理です。共産党政権が倒れて自由化してからスロヴァキア人は、ようやく美味しい料理を食べられるようになりました」という説明を聞いて、改めて中欧の貧しかった小国の悲哀を実感しました。
ともあれ、ご馳走になってお腹がくちくなったところで再びBanska Stiavnicaに向けて出発。次第に道が狭くなって箱根のような山道となり、くねくねと登っていくうちに1時間ほどで到着しました。この日はたまたま猛暑の天気でしたが、平地のニトラと比べて涼しく、空気も清涼感がありました。
Banska Stiavnicaは古くから金や銀を産出する鉱山都市として栄えた町だそうで、19世紀後半のオーストリア・ハンガリー二重帝国領当時は、スロヴァキア第3の人口を誇っていたそうです。幸いなことに第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦禍に見舞われることがなく、中世以来の街並みと産業遺産がそのまま残っていたことから、1993年にはユネスコの世界遺産として登録され、今ではスロヴァキア有数の山岳観光都市となって欧米諸国を中心に観光客が多数訪れています。
ただ、日本では殆ど知られておらず、旅行会社主催の中欧諸国を巡る団体観光旅行にも含まれませんから、日本人観光客は稀だそうです。さらに、今や世界中の観光地を我が物顔に歩き回る騒々しい中国人の姿も全くありませんでした。実際、車を降りて山間部を切り開いて作った傾斜のきつい細い山道を歩いていると、現地の住民から奇異の目でジロジロと見られました。恐らく東洋人である日本人の姿が、とても珍しかったのだと思います。
この段階でも、なぜMichal Koza Sr、Maros Strazanec両氏が、この銀山に連れてきてくれたのか、勘の鈍い私はまだ分かっていませんでした。それがようやく分かったのは、山の中腹にある大きな修道院に入ってからでした。この修道院では、かつて粘土を材料にしたクレイパイプ(Clay Pipe)を製造した機械類が展示してあり、クレイパイプの製造法の説明看板や実物のクレイパイプが並べてありました。
Michal Koza Sr.氏の説明では、この地域で銀の産出量が減った18世紀になって、銀の精錬職人たちが、生き残りのために新しい産業を起こそうということになり、そこで目をつけたのが当時流行し始めていた喫煙具のクレイパイプだったそうです。金や銀の生産のために掘り出した鉱石の残り滓が大量に投棄してあり、これを粘土状になるまで細かく粉砕してすり潰して材料にし、パイプの形に成形して焼き上げて素焼きのクレイパイプを製造した、とのことでした。最初にクレイパイプを作ってみたのは、陶芸家のフィカリアという人で、この人が鉱山の職人たちに製造方法を教え、それが産業となって、19世紀の最盛期になるとこの地域だけで三千もの工房が出来て、競ってクレイパイプを製造し、欧州全域に輸出していたそうです。銀山が閉山になって生活の糧を得る手段がなくなったこの地域の住民の生活を支えていたのはクレイパイプだった訳です。
現在では、クレイパイプの工房は一つも残っていませんが、趣味としてクレイパイプの製造をする人はいるそうです。ただ、当時の材料である鉱滓から作った白色の粘土を再現できずにいるので、品質は残念ながら当時に及ばないとのMichal Koza Sr.氏の説明でした。
因みに、ニトラ・パイプクラブの象徴となっている小旗のペナントには、クレイパイプが描かれています。そのクレイパイプの伝統を私達に教えてくれるために、仕事を休んでわざわざBanska Stiavnicaまで連れてきてくださったMichal Koza Sr.、Maros Strazanec両氏のご厚意に、深く深く感謝するのみです。
往時の銀山の採掘現場を体験できる観光名所の洞窟にも案内して頂けました。坑内に一歩入ると天井から地下水がじわじわ浸み出してきます。洞内の空気は冷涼で、半袖では肌寒かったです。冷蔵庫が無い時代は、この冷たさを利用してハム・ソーセージや乳製品、ワインの貯蔵に利用したそうです。
洞窟観光を終えて、外に出ると太陽は西に傾いていました。近くの喫茶バーで一休みして、地ビールで乾杯し、パイプを燻らしました。
夜、ニトラに戻るとIgor Escher氏が待ち構えていて、改めてレストランで我々の歓迎宴でした。Igor Escher氏はクレイパイプのスロヴァキア随一の蒐集家で、自宅を改装して広大なクレイパイプ展示室を作り、一部のコレクションはニトラの公立博物館に貸与しているそうです。2年前の欧州パイプ喫煙選手権大会の際に、ニトラの郷土史博物館でクレイパイプの見事なコレクションを拝見して感心しましたが、それもIgor Escher氏の蒐集品だったわけです。
ニトラ・パイプクラブの正会員就任式の為に訪れたニトラでの3日間の滞在経験を駆け足で紹介致しました。率直に申し上げて、私達の為にこれほど時間を割いて大歓待していただけるとは思いもよりませんでした。真心のこもったおもてなしだったと思います。
此処に改めてIgor Escher、Michal Koza Sr、 Maros Strazanec、 Josef Stanislav博士の4氏に深甚なる謝意を表明して、擱筆致します。