パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

第18回 ショパン国際コンクールを聴いて その2

愛煙家 伊達國重

ショパンコンクールの第1、2、3次予選の採点表が11月5日に公表された。本選の採点表は未だである。前回第17回の採点表は本選終了後すぐに全て公表されたが、今回なぜ公表までにこんなに時間がかかったのか、その理由は不明だ。かえってさまざまな詮索を招くであろう。


私なりに、17名の審査員の採点傾向とコンテスタントの演奏を比較検討してみた。
1、2、3次予選の採点表を入念に診て、総括して言えることは、公平に審査しているが、個々の審査員の好みや曲解釈によって、評価に著しい差がある。同じ演奏なのに審査員により、評価が大きく割れるのはザラだ。また同じコンテスタントでも各予選の出来次第で評価がかなり変動していた。これは審査員の主観だけで評価する演奏コンクールである以上は当然である。客観的な基準があるスポーツ競技の採点とはまるで異なる。総じて言えば、今回はやや派手目な演奏に高い点がついて、いわゆる正統派の演奏への評価は高くなかったように感じる。審査員は新鮮味がないと感じたのかもしれない。この辺りは好き嫌いだから、理屈抜きだ。


ピアノの演奏技術が未熟なコンテスタントは落ちるべくして落ちるが、2次予選まで残るコンテスタントともなると演奏技術については一応の要求水準は満たしている。通過の可否を決めるのは審査員の好みや曲解釈の要素が大きい。従って審査員の選び方によって、評価は大きく変わってしまう。
だから大方の審査員の好みや曲解釈を予め知って、対策を講じた者が断然有利となる。受験勉強と同じだ。私がさほど優れた演奏とは感じなかったポーランド人の演奏者が次々に1次予選を通過したのも、審査員の半数近くがポーランド人だということと相関が高いだろう。同様に下馬評が高かった中国人コンテスタントが2次予選で軒並み討ち死にしてしまったのも、審査員の傾向把握と対策が甘かったように思う。


反田恭平君が2位に輝き、小林愛実さんが4位に入ったのも、その実力は当然のこととして傾向を知り対策を6年かけてしっかり立てたことが大きいと思った。私がコンテスタントの中で楽才が抜きん出ていると感じた角野隼人君が惜しくも3次予選を通過出来なかったのは、一言で言えば準備不足だろう。逆に言えば、コンクール対策が手ぬるかったのに3次予選まで進めたのは、その非凡さを現している。


私はコンテスタントの演奏についての審査員たちの技術評価は素直に認めるが、実は彼らのショパン解釈の方はあまり信用していない。審査員たちの誰一人として1849年にこの世を去ったショパンの演奏を実際に聴いたことが無い筈だ。違うかな? 残された楽譜などを基に時代背景を調べてあれこれと解釈しているに過ぎないだろう。


ショパン解釈は19世紀、20世紀前半、中葉、後半、そして21世紀と時代とともに変遷している。これはピアノという楽器の発展ぶりとも軌を一にしている。20世紀の中葉はショパン弾きと言えば、アルフレッド・コルトー、ついでアルトゥール・ルビンシュタイン。ショパンの模範演奏として昔、レコードでよく聴いたものだ。今でも時々聴く。
時代を遡って19世紀風演奏は録音が無いものの20世紀前半はショパンの孫弟子ラウル・フォン・コチャルスキ、ショパン弾きとして一世を風靡したウラディミール・ド・パハマンらが活躍していたから、往時の演奏スタイルを推測できる。今とはまるで違う。幸い、ユーチューブ動画に多数投稿されているから一度試聴あれ。
ショパンコンクールを受ける若者が、19世紀風の演奏をしたら、「我儘勝手な演奏」と酷評され、おそらく予備予選も通過出来ないだろう。
 20世紀後半は、マウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチといった天才級の秀でたピアニストが出現してショパン演奏も大きく様変わりした。
つまり今回のショパンコンクールの審査員たちのショパン解釈は21世紀の今風のものなのだ。彼らの主観的解釈に最も寄り添った平均点的うまい演奏が優れているという評価を得て本選に残り、そして順位がつくということである。

私は果たしてこれで良いのだろうかという疑問を常々感じている。


では、どうあるべきだろうか?


まず17名もの審査員は多すぎる。聴衆に感動を呼び起こす力がある優れたコンサートピアニスト数人で十分である。音楽大学のピアノ教師は審査員にしない方が良い。そもそも聴衆の魂を揺さぶるだけの天分が乏しいから仕方なくピアノ教師になっているんじゃないかな?

私の友人知人にも演奏者出身の音楽大学の教員や作曲家がたくさんいるが、音楽美の本質について、人間が作った人工的なものだと勘違いしている水準の方が少なくない。哲学的深い洞察まで達していないのだ。思索と勉強が浅い。

彼らと話していると作曲家の生涯、曲の技法、時代背景解説や演奏技術の知識は豊富だ。かなり参考になる。しかし音楽美の本質についての深い洞察を聞いた試しがない。魂を揺さぶられるような名曲が持つ深い美しさの本質とは一体何なのかについては説明できない。作曲家の生き方、当時の時代背景の考証や人間関係、民族音楽との関わりなどの様々な知識を語ることで、さもわかっているようなふりをしている。作曲の技法、楽器の演奏には秀でていても、音楽美の本質がわかっているとは言えない。


過去数回のショパンコンクール優勝者、上位入賞者に聴衆の人気があまり湧かないのは、ピアノ教師が好むタイプの優等生的なピアニストが多いからだろう。私も何度か彼らの受賞来日公演を聴きに行った。「上手な演奏だな」とは思ったが、感動は乏しかった。彼らの演奏にはカリスマ性がなかった。ピアノ演奏がうまいということと、聴衆を感動させられるということは別の次元のものである。
そう、感動、カリスマ性が音楽演奏の本質かつ決定的要素なのだ。


世界最高峰と言われるショパンコンクールが果たすべき、最も大切なことはショパンが作曲した時の天啓(=霊感、インスピレーション)を聴衆に直接感じさせるようなカリスマ性を持つコンテスタントを発見することだろう。

ショパンの愛人でパトロンでもあったジョルジュ・サンドがショパンの作曲の神髄について書き残している手記を昔読んだ。
――ショパンは散歩している時や友人と談笑している時に、突然、天からの霊感で曲の楽想が降って来た。ショパンは忘れまいと急いで部屋に戻り、その楽想を懸命に楽譜に書き留めた。完全に思い出すまで数日かかることもあった。楽想は最初からほぼ完成していたーー正確な記述は覚えていないが、サンドの書いた趣旨はこのようなものだった。ショパンが本物の真の天才であったことを生々と活写しているではないか。ピアノを前にうんうん唸っても凡庸な駄作しか作れない昨今の二流、三流、四流の作曲家たちとはまるで違うのである。もちろんショパンの作品の中には凡作や駄作もある。おそらく霊感が降りなかった時の作品だろう。


ショパンの曲の美しさの本質は天啓の閃きの中にある。解釈は時代によって変わるだろうが、演奏の中で真の天才が忽然と得た霊感をどこか体現できるピアニストが本物のショパン弾きである。


ピアノ演奏に秀でた人を発掘するのは、他のコンクールに任せれば良い。たくさんある。世界一のピアノコンクールと言われ続けるには、今の審査方法では行き詰まるだろう。


 余談だが、コンテスタントがスタインウェイ(2種類)、ヤマハ、カワイ、ファツィオリのどのピアノを選ぶかということは採点にはほぼ無関係と言っても良いと思った。各ピアノの特長について様々な能書きを語る専門家がおられるが、残念ながら私の老化した耳ではその微妙で繊細な音色の差までは判別できない。どのピアノもホールに合うよう絶妙に調律されており、素晴らしい音色であった。


さらに余談だが、各予選では、午前中に演奏したコンテスタントへの採点が総じて辛く、午後に演奏した者には採点がやや緩い傾向が見られた。特に午後の部の終わりの方で演奏した者は評価が甘くなっている印象だ。これは審査員の集中度、疲労度、印象度との兼ね合いだろう。審査員も人間だからやむを得ない。今回優勝のブルース・リウ(劉曉禹)君は予選の演奏順が毎回最後の方で、運も味方したと思う。