パイプの愉しみ方

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「4月の思い出」 菅野邦彦ライヴ

JPSC 小枝義人
クロマチックピアノ披露

 

東京は桜が満開で、皆が連れ立って花見に出かけた4月7日、現役最長老のジャズピアニスト・菅野邦彦氏(昭和11年生れ 87歳)が都内のジャズハウスで開催したデュオセッションに、パイプ仲間と連れ立って行った。

 

菅野さんは60年以上に亘って日本、いや世界のジャズピアノ界の最前線で活躍している大御所だ。独学でピアノ演奏を学んで、天才ジャズピアニストの名をほしいままにしてきた。

 

筆者も大学生だった1970年代半ばから、ずっと彼のファンだ。アルバムも沢山持っているが生演奏は2年ぶりで、今回は、菅野さんが苦心の末完成させた「平面ピアノ」での生演奏である。

 

これは、黒鍵と白鍵の段差を無くして88個の鍵盤を半音ずつ等間隔に並べた世界で唯一無二のクロマチックピアノである。菅野さんのジャズピアノの即興演奏では、主題の美しい旋律を巧みにいじりながら自由自在に転調して展開・発展させることが多いが、その転調がとてもしやすくなる。つまり菅野さんが目指す究極のアドリブ演奏のための特注ピアノというわけだ。

ピアノ演奏の卓越した名手でもあったかの偉大な作曲家フレデリック・ショパンは手が小さく指も細かったことで知られる。菅野さんがかつてご自分の手と指をショパンの左手の石膏手型と重ね合わせたら、なんと瓜二つだったそうだ。

 

菅野さんが平面ピアノを思い立ったのは、指が細いため通常のピアノでは演奏中に黒鍵と白鍵の間に挟まって引っ掛かることがあったことと、ジャズやクラシックのピアノ演奏でしばしば使う半音階打鍵(クロマチックスケール)の超高速指使いが容易になるためだと伺った。

 

菅野さんの指は、毎日の練習のしすぎなのか、指先の指紋が擦り減ってツルツルになっている。おまけにご高齢で指先の湿り気がなくなり、滑りやすいという。そんな事情もあって数年前に1度完成させたものの、どうも気に入らず改良に改良を重ねて、改めて今回、都内のセッションで披露した。菅野さんによれば、まだ鍵盤が重いので、今度は軽い材質の桐材で試作するとのことだった。

 

菅野さんと懇意のパイプ仲間の友人が、試しに鍵盤に触れさせてもらったが、鍵盤が細いため打鍵する指との接触面積が通常のピアノよりも狭くなるので、確かに鍵盤が重く感じるとのことだった。菅野さんは「弾き易いピアノだよ」とファンに話していたが、指の太いピアニストにはいささかハードルが高いかもしれない。

 

余談となるが、菅野さんはスーパー愛煙家で、若い頃は毎日紙巻タバコを数箱喫っていた。かつてはタバコを咥えての演奏も多かったが、80歳を超えたころから肺気腫気味になり、医者からタバコを止められている。ただ肺気腫が快方に向かっているので、大好きな喫煙を再開するのが楽しみだと伺った。

 

1時間遅れの快演

 

ということで、午後、夕2部制のライヴだが、我々は午後の部に参上した。
元来スロー・スターターの菅野さん、昼間の部、2時スタートが1時間遅れの3時スタートとなる。

 

新しい鍵盤のお披露目弾きという状況だから、菅野さんは、「リンゴ追分」から始め、すべてスローバラードを選曲している。ドラムの佐々木豊さんは長年の相棒で、臨機応変のピッチを刻むから、菅野さんは思うままの演奏を展開するが、前半はすべてゆっくりめだ。観客は長年のファンが多く、以前別のライブ会場でも見た人もいる。

 

理解者の中で菅野さんは自由自在に弾きまくるが、周りの様子を感じて、サンタナの「ブラックマジック・ウーマン」で会場を盛り上げると「何かリクエストありますか?」と来た。

 

そこで「キャラバン!」と声がかかると、「デュオでキャラバンは難しいなあ」とつぶやきながら、イントロから長いアドリブを展開し、中盤以降はおなじみの力強いフレーズが奏でられ、会場の熱気がようやく上がってきた。

 

前半が終わって休憩となるが、すでに4時半。本来ならここで終演だが、まだ後半が残っている。菅野さん、休憩などせず、ピアノの周辺でファンとの交流を楽しんで、時間なんか全然気にしちゃいない。

さて、後半のスタート、このあたりからだんだん菅野さんが乗ってきた。最前列での鑑賞だから、彼が笑みを浮かべて鍵盤に向かっている表情がよく見えるのだ。
こうなるともう止まらない。筆者のリクエストした「I'll Remember April」(4月の思い出)は、40代の頃のように畳み込むようなアップテンポではなく、ソニー・クラーク風のスローバラードで味わい深い演奏だ。十八番のミスティとオーバー・ザ・レインボーをメドレーで組み込むあたりは、高いお金を払っても聴きに行きたくなる超一流のミュージシャン振りだ。

 

アラン・ドロンとビートルズ

 

個人的に、この日いちばん心に沁みた演奏は60年以上前、アラン・ドロンを一躍世界的スターにした映画「太陽がいっぱい」のテーマ曲(ニーノ・ロータ作曲)だった。

これは筆者が知る限り、菅野さんのどのアルバムにも収録されておらず、ライヴでも初めて聴いたが、後半の白眉だった。

昨秋、この日のパイプ仲間とともにラグビーW杯観戦でフランスに長期滞在していた時に、たまたま菅野さんから仲間に電話があって、休憩時間にフランスの話が出たことでインスピレーションが湧いた特別サービスだったようだ。

我々がフランス贔屓となっていることも加わり(映画は南イタリアで撮影されたらしい)、美しいメロディーが映画のラスト、どんでん返しの場面に重なって聴こえてくる。いや、名演奏でした。

 

ライブ終了後、菅野さんに聞いたら、「僕は大昔、アラン・ドロンが来日した時、彼のイヴェントに参加したことがあってね。そのとき、この曲を弾いたら、びっくりしていたよ」と。ドロンは昭和38年(1963)、フランス映画祭のため初来日しているから、その時のことだろうか。

 

アラン・ドロンは菅野さんより1歳年上で現在88歳。引退した今は、自らの老いを受け止められず、苦しんでいるという。バリバリの現役でいる菅野さんは幸福といえる。

もう1つ、これは10数年前、やはり菅野さん本人から聞いたエピソードだ。ビートルズが来日公演した66年6月当時、彼らが宿泊した永田町・東京ヒルトンホテル(現キャピトルホテル東急)で、菅野さんはラウンジ・ピアニストを務めていた。

 

武道館での公演では日本人の観客があまりに静かなので、彼らの手抜き演奏がバレてしまった。休みなしの長期ワールドツアーでは、常に狂騒と騒音の中、ひどい音響装置でのプレイで、疲弊した彼らが編み出した一種の智慧だったが、世界一のグループのプライドはいたく傷つき、意気消沈して戻ってきた。ここまではよく知られている話だ。

このあとは菅野オリジナル。

ホテルに缶詰め状態だった滞在中、夜遅く、ビートルズの面々がお忍びでラウンジに降りてきたことがあった。そんな彼らに、菅野さんは気をきかせて「イエスタデイ」を演ったら、「なんてうまく弾くんだ」と彼らはますます落ち込んでしまったという。

さすが、60年以上、音楽界の第一線で体を張っている菅野さんだ。後半ライブは熱を帯びる一方だ。なにせ「ピアノを弾くために生まれてきたんだから」と公言する人だから。

6時スタートの夕方の部まで時間がない。しびれを切らした店のオーナーから「そろそろ、時間が」とのペーパーがピアノの上に。それをちらっと横目で見た菅野さん、デイヴ・ブルーベックの「テイク・ファイヴ」をテンポよく弾きまくって、6時前にようやくお開きに。 スタッフは演奏中に、すでに我々のテーブルの上の飲み物をせわしく片付けていた。

 

店を出ると、張り紙が―「夕方の部は、都合により6時15分開場となります。店主」。

 

終わり