パイプの愉しみ方

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続 偽物ダンヒルパイプにご用心 その2 「贋作パイプものがたり」

日本パイプクラブ連盟副会長 岡山パイプクラブ会長 香山 雅美

 

先日、日本パイプクラブ連盟(PCJ)事務局でホームページの編集を担当しているS博士から電話があった。

「香山さん、今年がPCJ設立50周年記念ということで、パイプの蘊蓄ものの面白い話はないかと昔のパイプ関係の雑誌や資料をあれこれ渉猟していたら、香山さんが喜びそうな、びっくりする記事を見つけたんですよ」との由。

思わず「何、それ?」と聞き返すと、「贋作パイプものがたり ――ほんとうにあった話――」という記事だという。昭和53年9月15日発行のパイプ関係の季刊小冊子「パイプ手帖」第30号(長島商店発行)に掲載された長島雅英氏の執筆記事だ。早速、その記事のPDFを電子メールで送ってもらい早速読んだ。

 

まさにびっくり。昭和27年より前のGHQ占領期に、日本で本物そっくりのダンヒルパイプの贋作がこっそり作られ、百貨店や専門店で販売されていたという秘話ではないか。私が昨年からPCJホームページ上に連載している偽物ダンヒルパイプの記事と大いに関連がある。偽物やパクリ製品と言えば、近隣のあの国のことをつい連想しがちだが、日本でも戦後の混乱期にパイプの贋作に走った人がいたという衝撃的な話だ。実話に間違いなかろうと思う。

 

長島雅英さんとは私は面識がないが、東京・銀座を拠点に活動していた日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)の草創期からの会員で、JPSCの運営で活躍なさっていた方だ。ご著書に「パイプのはなし」(昭和49年)がある。当時、東京・日本橋兜町にあった貿易会社長島商店の専務取締役をなさっていて、長島商店はフランスのサン・クロードから様々なパイプを輸入していた。長島商店は日本でのパイプ喫煙の普及のために、同社独自の編集で小冊子「パイプ手帖」を発行。パイプ愛煙家で知られる売れっ子の作家や著名人の方々に依頼して、パイプに纏わる様々な面白い逸話を寄稿してもらっていた。当時、たばこ屋でまとめてパイプたばこを買うと、店番のお嬢さんが「パイプ手帖」をオマケで一冊付けてくれたものだ。

 

当時、ひょっとしたら私もこの記事を読んだかもしれないが、何しろ40数年前のことだ。忘却の彼方にある。長島商店がその後どうなったかは知らない。長島雅英さんはご存命なら百歳をゆうに超えておられると思う。パイプ手帖が昭和55年4月発行の第34号を最後に突然休刊になっていることもあり、おそらく鬼籍に入っておられると推察する。

 

ホームページ編集担当のS博士と相談して、興味深い記事をこのまま埋もれさせてはもったいないし、70余年前の一つの逸話として、私の「続 偽物ダンヒルパイプにご用心」シリーズのその2に収録する形で、記事を原文のまま復刻しようということになった。 以下、長島雅英さん執筆の「贋作パイプものがたり」である。熟読翫味して頂きたい。

 

贋作パイプものがたり  ――ほんとうにあった話―― 長島雅英

 (昭和53年9月15日発行「パイプ手帖」第30号より)

「コンニチワ……」

Aさんが約束どおりの時間に愛想笑いを浮べながら入ってきた。

「これなんですよ、見てください」

支配人のBさんの机の上に、Aさんは手に持った包みから袋入りのパイプをとり出して並べた。

「なんだい、このパイプは? おやっ、ダンヒルじゃないか! いったい、どうしたんだ、キミッ!」

Bさんは驚いた顔でたずねた。

「実は、香港ルートで入ってきたものなんですよ、お店で買ってもらえませんね......。全部で二百本近くあるんですけれど......」

「やっぱりいいできだねえ......。 ところで、いくら?」

そうききながら、Bさんは(......値段さえ折りあえばデパートと専門店へ持っていけば喜んで買ってくれるはずだ。全部売れると結構いい商売になる)と、胸算用した。

「○千円ぐらいでどうでしょうか」

Aさんがそういうのをきいて、Bさんはちょっと顔をしかめた。目算より高かったからである。

しかし、やがて値段の交渉がまとまって、Aさんが持ちこんだダンヒルのシェルブライヤーのパイプは、Bさんの勤める喫煙具問屋が全部買いとった。

------昭和二十七年頃のことである。

香港からの密輸ものであるというこれらのパイプは、型もビリヤードばかり。箱もなく、袋も日本製のものであった。それでも、パイプ類の輸入が自由化されてなかった当時、小売店にとっては並べればかならず売れる・・・・・・いわば喉から手の出るほど欲しいパイプだった。

はたしてBさんの予想どおり、このパイプは有名デパートと専門店が買いとった。戦前からの影響で、ブライヤー・パイプといえば、商売人でさえ英国製しか知らず、ダンヒルが世界一のパイプと信じられていた時代だから、店頭での評判もよく、つぎつぎに売れていた。

これらのパイプのなかには、いまでもコレクターの手もとに保存されているものがあると思われる。

 

この物語には、実はウラがある。 そして、その話は冒頭に述べたできごとよりも、さらにさかのぼったところからはじまるのだ。

――ある夜、パイプ製造業のXさんの家に、かねて懇意なAさんがやってきて、真剣な面持ちで話しはじめた。

「Xさん、ダンヒルのパイプを五~六百本つくってくれないかね……」と。

当時、Aさんは独立して商売をはじめたものの、なかなかうまくいかずに困っていた。そこで考えたのだ・・・・・・。

その前年、ブライヤーの輸入が再開されたものの、プレミアムつきの外貨で輸入されるためにたいへん高価だった。メーカーが問屋に売る完成品パイプが八百円から千円ぐらい。その小売値が二千円から二千五百円ぐらいにもなった。高卒の初任給が六~七千円の時代だから、今日では想像もつかぬくらいの高値だ。

もちろん、現在のように大量にパイプが売れたわけではないが、国産パイプでさえこの値で売れるのだから、 ダンヒルなら一万円以上でも間違いなく売れるはずである。

こう考えたAさんは、贋もののダンヒルをつくり、一山あてて、ピンチから脱出しようと計画したのだった。

この思いもかけぬ相談を受けたXさんは、さんざん考えたすえ、「ヨシッ、やってみよう」と引き受けた。

まだ代理店があるわけでなし、アメ横や一部の店で少量売られているダンヒル・パイプは、密輸ものか、米軍PXからの横流しだけである。バレたところでたいしたこともあるまいし、第一、話が面白いというのが、贋ものつくりに踏みきったXさんの考えだった。

 

さて、仕事を引き受けたものの、すぐ二つの難関にぶつかった。

まず、とっておきのブライヤーを削りだしたが、ほとんどのボウルに疵が多くて、とてもダンヒルには化けられない。Xさんは、ダンヒルがフランスのサン・クロードにあるパイプメーカー数社から疵のないボウルを買い集めてパイプをつくっている事実を知らなかったのだ。

しかし、頭のよいXさんは、すぐにこの方法ではダンヒルのスムーズをつくるのが不可能なことを悟り、作戦を変更してシェル(サンドブラスト)をつくることにした。彼はシェルをつくることにかけては、十分な自信と経験があったのである。

その二~三年前に、得意先の問屋の社長が秘蔵のダンヒルのシェルを見せて、「君もパイプ製造屋なら、このくらいのパイプをつくってみろ!」とハッパをかけた。 社長自慢の品だけに、並みのダンヒルとは違って、ボウル表面が深く抉れて、木目がクッキリときわだった見事なものであった。

Xさんはそのパイプを手本に、削りあげたボウルに砂をかけてみた。しかし、固いブライヤーや木目のよくつんだものは、つよく砂をかけても一部が浅く凹むだけである。長時間砂をかけつづけてもその凹みは深くならず、ボウル全体が砂に削られて小さくなっていき、ついには穴があいてしまう。木目が荒くて柔らかいブライヤーは容易に表面が削られ、見本のような綺麗な木目が出たが、あいにくと手もとにそんなブライヤーばかりはなく、量産は不可能であった。

彼はなんとかダンヒルに負けないものをつくりたいと日夜研究を重ねた結果、ついにうまい方法を発見した。

固いブライヤーでも、サンドブラストすると浅く凹凸ができ、木目は判然とする。その木目と木目の間を、歯医者が歯を削る高速回転バイトを使って、さらに深く削りこんだ。そのボウルにもう一度砂をかけると、バイトで削った跡が消えて、見事なシェル加工ができた。この方法だと、何本つくってもすべて木目がクッキリと浮き出したものができる。

早速、内職の小母さんたちに教えて、シーシー、ガーガーと削らせた。やがてこうした苦心の作を先の問屋に持ちこむと、驚いた社長が、「よく出きたナア、君のシェルは日本一だ。いや、ダンヒルよりもよいから世界一だよ。いったい、どうやってつくったんだ」とたずねたがXさんはその秘密をけっして明かさなかったのである。

 

第二の難関はマウスピースだった。

商売熱心なXさんの下で働く職人の技術は一流で、ダンヒルよりも上手なマウスピースをやすやすとつくった。

当時は溶解したエボナイトを穴から押し出してつくった一メートルほどの長さの丸棒を削って、マウスピースをつくっていた。しかし、このエボナイトはいくら磨いてもダンヒルのような艶が出ないのである。

困ったXさんは、エボナイト業者にたのみこんで、純度の高い最高級エボナイトを一メートルぐらいの板状につくってもらい、これを短冊状に切断し、さらに丸棒に削りあげた。

このエボナイトでつくったマウスピースを磨くと、ダンヒルとまったく見分けがつかない光沢が出た。一流の職人が最高のエボナイトを使ってつくるのだからできあがったマウスピースは、本ものよりもよくできていた。

 

前に述べたサンドブラストの技術を使い、クッキリと木目が浮きあがったボウルに、白毛染めの黒でタップリと下塗りをした。この白毛染めも、Xさんが数多くの顔料をテストしてきめたものだ。そして、ニスをかけて十分に乾燥させたうえに、カシューウルシで仕上げをするとシェル・ブライヤーそっくりになった。

すべての技術的問題が解決できたので第二段の砂かけを終ったボウルにあわせて、一本ずつマウスピースを削りあわせて、パイプに仕上げていった。

塗色をし、カシューで仕上げ、マウスピースに細い丸棒状の白セルロイドを埋めこめばマークができる。さらにこれを磨きあげると、つくった本人がほれぼれするくらいのよいパイプができた。刻印屋につくらせた見本と寸分違わぬダンヒルの刻印を打刻して、Xさんは一人つぶやいた。

「われながらよくできたナァ……。 これが日本製だとは、お釈迦さまでも気がつくまい......」

 

私はこの話を、ずいぶん昔、AさんやXさんと懇意で、一時期ともに働いたことのあるというYさんからきいた。驚くべき話なので、たいへん興味をもった。

もう時効になっている話とはいえ、贋ものつくりはもちろんほめたことではないし、また許されるべきことでもない。しかし、ダンヒルのニセモノがかつて日本でつくられ、それが当時の市場に出てパイプスモーカーたちの手に渡ったという事実はたしかなのである。 そして、それが当時の時代色をよく反映していることから考えても、ことの是非を越えて、一つの事実として記録しておくべきだと思った。私があえてこの小文を綴ったのは、そのためである。

この話の登場人物は、いまもみんな元気で働いている。だから、Aさん、Bさん、Xさんと、すべて仮名にしたわけだが、Yさんの話だと、当時、Aさんはたしかに二百本近いものを全部売ったと語っていたそうである。

私は正確を期すために、ごく最近、贋ダンヒルをつくったXさんに会って話をきいた。

Xさんは、二百本近くつくったのは認めたが、実際に売ったのはごく僅かで、残りは刻印を削り落したという。その場合はマウスピースを全部つくりなおさなければならないし、そのうえ、普通の国産パイプとして売るのだから、XさんかAさんは大損をしたことになる。

いずれがほんとうか······は、それこそお釈迦さまにでもたずねるほかはあるまい.......。

(復刻引用終わり)

 

如何だろうか?
余計な註釈はいらないだろう。
私自身はダンヒルパイプの真贋を見極める眼力をさらに磨かねばと密かに心に誓った。