パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

日本パイプクラブ連盟設立50周年企画村上征一氏インタビュー

日本パイプクラブ連盟事務局

 

日本パイプクラブ連盟(PCJ)が発足して50周年の記念すべき節目を迎えました。

東京・銀座で活動していた日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)が旗振り役となって、1974年3月3日に全国各地のパイプクラブを糾合して、ナショナルクラブである日本パイプクラブ連盟を創設。以後毎年、全国各地で全日本選手権大会を開催し、また世界選手権大会を東京で3回にわたって主催するなど世界各国のナショナルクラブの中でも有数の歴史と伝統を誇る団体として名誉ある地位を占めています。

半世紀を閲し、創設当初の経緯を語れる方は今や数少なくなりました。そこで往時を知る生き証人の方々に改めてインタビューして連盟の草創期を思い起こして頂き、我々後輩がその歴史と伝統を継承し、発展させていく縁(よすが)にして参りたいと考えます。

今回はJPSC長老で、日本たばこ産業株式会社(JT)取締役などを歴任された村上征一氏(85)に話を伺いました。村上氏は当時の資料を紐解きながら、一つ一つ記憶を確かめて語って下さいました。

 

――日本パイプクラブ連盟(PCJ)設立の経緯についてご教示ください。

 

村上氏:昭和48年(1973年)10月13日にフランスのサン・クロードで開催した第2回欧州パイプスモーキング選手権大会に、日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)が、日本から選手団を送り出したのが直接の契機です。

 

これはJPSCの初代の世話人代表の岡部一彦さん(著名な登山家、画家)の音頭取りで派遣が決まったものです。欧州選手権前に派遣選手を決める選考会を開催。優勝した東田正三さん(函館PC)を始めJPSCから団長の柏木大安さん(PCJ初代会長)、白木原明宏さん、柏原良三さん、山田重雄さんと私村上征一、ジョン・シルバーPCから伊原明男さんの7名でした。欧州選手権大会への日本からの選手団派遣は初めてのことでした。

 

1970年にフランスのメッス博覧会で開催された欧州8カ国によるパイプスモーキング競技会をきっかけに、欧州のパイプ愛煙家たちが集まって各国のナショナルクラブの連合体である欧州パイプクラブ国際委員会(CIPCE 、Comité International des Pipe Clubs Europe)を結成し、そのCIPCEが以後、欧州選手権大会を3年毎に開催するという情報が入っていました。当時、サン・クロードからパイプを輸入していた業者の方の情報でした。

 

当時、日本は欧州諸国だけのCIPCEには加盟していませんから日本選手団は選手権大会にはゲスト参加という形でしたが、CIPCEはおおらかな組織ですのでなんとなく正式参加ということになって、この第2回欧州選手権大会で日本選手代表団は参加6カ国中、堂々団体2位の成績(4時間3分17秒、代表選手上位3名の合計記録)という見事な成績を収めました。参加6カ国はフランス、イタリア、英国、フィンランド、スイスと日本です。個人戦では、柏木さんが6位(1時間33分17秒)、白木原さんが14位(1時間17分45秒)、柏原さんが18位(1時間12分25秒)でした。

 

サン・クロードでの欧州選手権大会の際にCIPCEの総会が開催されました。総会には選手団団長の柏木さんが本来出席する予定でしたが、柏木さんから「僕はパイプ工場見学に行きたいから、村上君、君が代わりに総会に出てくれ」と言われ、私が日本代表として一人で総会に出席しました。私はフランス語は不得手ですので、通訳を当時の日本専売公社のブリュッセル駐在員に依頼しました。ちなみに私は勤務先の日本専売公社では商品開発担当調査役という役職でした。

 

そのCIPCE総会で、私は事前にJPSCの岡部一彦世話人代表と相談して決めていた二つのことをスピーチしました。

一つは、日本は欧州パイプクラブ国際委員会(CIPCE)への正式加盟を希望する。ついては、CIPCEを欧州諸国だけのパイプ愛煙家の連合体組織ではなく、世界中のパイプスモーカーへの門戸を開いて世界的組織に衣替えして頂きたい。

 

一つは、将来、世界選手権大会の日本での開催を希望する。

 

そしたら総会で私の提案が正式な議題となって採択され、1976年に開催する予定の第3回大会を世界大会に発展させて日本で開催するということが全会一致で正式決定されたのです。

総会後、通訳から「決まったよ」と言われ、その即断即決ぶりにいささか驚きました。とはいえ私は「自ら提案した以上、仕方がない」と腹を括りました。

 

この1973年のサン・クロードでの総会では、アジアから日本が参加することになるので、世界組織名に改めようということになり、欧州パイプクラブ国際委員会(CIPCE)の名称を変更し、最後の「Europe」を取って、国際パイプクラブ委員会(CIPC、Comité International des Pipe Clubs)と現在の名称に改称が決まりました。

 

また日本の正式なCIPCへの加盟手続きは1976年の第3回世界パイプスモーキング選手権大会開催時のCIPC総会で行うことが内定しました。正式加盟が3年後となったのは当時、日本には個別クラブのJPSCがあっただけで、国内の諸クラブを統括して日本を代表するナショナルクラブがまだ誕生していなかったからです。

 

3年後の第三回世界パイプスモーキング選手権大会を日本で開催することが決まってしまった以上、受け皿の組織を作らなくてはなりません。だから慌てて日本のナショナルクラブの日本パイプクラブ連盟を結成したというのがことの次第です。

 

――村上さんが日本代表としてサン・クロード総会で提案なさったことが、即座に総会で決定されてしまって日本国内での反応は如何でしたか?

 

「村上が勝手に提案して世界選手権大会の3年後の日本開催が決まってしまった」という風に一部で誤解され、JPSC内でも事情を知らない方から返上論まで浮上したと聞きました。しかし私はJPSCの岡部世話人代表と事前に打ち合わせしていたことを総会でスピーチしたのです。大会招請の話の急進展ぶりに岡部さんもいささか面食らったとは思いますが。

 

JPSCでは岡部さんを中心に「それでは開催に向けて準備組織を作ろう。ナショナルクラブを作ろう」という風に盛り上がりました。早速、日本選手団団長を務めた柏木さんが世界選手権大会の準備委員長となることが決まり、またナショナルクラブ設立に向けて動き始めました。

 

問題は、私の勤め先の日本専売公社でした。上司にことの次第を報告したところ、驚かれて「お前が勝手に決めてきたのだから、専売公社は一切責任を負わないぞ。JPSCが世界選手権大会を開催したいのなら、勝手に開催したら良い。専売公社として面倒を見ない」と怒られました。

 

とは言え日本でパイプスモーキングの世界選手権大会を開催するというのは名誉なことです。当時の1970年代の日本は高度成長期を経て国力が伸び、活力がみなぎっている時代でした。世界的にも日本の存在感と日本への期待感が著しく高まっており、そんな雰囲気もあってサン・クロード総会で即座に日本開催が決まったものだと思います。

 

上司には叱られましたが、その後、私が社内で色々と説明して根回ししているうちに、「せっかく世界選手権大会を誘致したことだし、お粗末な大会になっては日本の煙草産業界の名誉にも関わる。日本専売公社としても裏方として色々と支援しよう」という風に空気が次第に変わっていきました。

 

そんな事情もあって1976年の第3回世界パイプスモーキング選手権大会では、当時の日本専売公社副総裁の泉美之松さんが大会名誉会長を引き受けて下さることになり、総裁に就任された後も、そのまま大会名誉会長として大会前の前夜祭(ガラディナー)に出席して頂き、祝辞を頂戴しました。

 

――日本パイプクラブ連盟誕生に向けた日本国内での活動などをご教示下さい。

 

日本パイプクラブ連盟結成の背景には昭和47年(1972年)にJPSCの主催で、第1回全日本パイプスモーキング選手権大会を開催したことがあります。JPSCの設立は昭和42年(1967年)です。パイプ愛煙家を自負する各界の錚々たる名士が名を連ねた名門パイプクラブです。銀座の蕎麦屋「よし田」で例会を毎月開催してスモーキングコンテストを行っていました。

 

世話人代表の岡部さんが、昭和47年のJPSC創立5周年記念事業として、全日本パイプスモーキング選手権大会を開催しようと唱えました。JPSCの月例会のスモーキングコンテストを発展させる形で日本中のパイプスモーカーに開放し、大々的に行えば全日本選手権大会が実現するという構想でした。当時の日本専売公社が各地のパイプクラブの所在やパイプ愛煙家の状況などを概ね把握していたので、専売公社のPRセンターや煙草屋さんの協力を得て、そのルートを通じて大会開催を告知、案内し、パイプ愛煙家の皆さん方の賛同を得られました。

 

5月13日に当時の銀座・東急ホテルの地下のバーに日本中からパイプスモーカー60名が集まって催した第1回全日本選手権大会は、珍しい催しとあってマスコミの注目を集め、多くの取材が入って大成功を収めました。これを契機に全国で新しいパイプクラブが続々と誕生しました。

 

1970年代頃、シガレット喫煙に飽き足らない全国の愛煙家の間で、パイプ喫煙がブームになっていたことが背景にあると思います。急増したパイプ愛煙家の強い要望で、日本専売公社でもそれまで桃山くらいしかなかったパイプ煙草の新銘柄を続々と売り出しました。この当時、海外経験などがあるごく一部のハイエンドの煙草マニアだけが楽しんでいたパイプ煙草の消費量が飛躍的に伸びていきましたから。

 

翌昭和48年(1973年)5月に東京・葵会館で開催した第2回全日本選手権大会までにジョン・シルバーPC(浅草)、千葉PSC、パシフィックPSCなど6クラブが誕生しました。

昭和49年(1974年)3月3日に葵会館で全国の16のパイプクラブが結集して日本パイプクラブ連盟(PCJ)を結成しました。結成時点の各クラブの会員数を合計すると1000名くらいだったと記憶しています。

 

昭和50年(1974年)の第3回全日本選手権大会は、第2回までJPSCが主催していたのを日本パイプクラブ連盟(PCJ)に開催権を譲り、以後の全日本選手権大会は PCJ主催で、現在に続いています。連盟発足後も北は北海道から南は九州まで全国各地に続々とパイプクラブが誕生して連盟に加盟しました。世界選手権開催時には37クラブが加盟していました。

 

こうして産声を上げたPCJですが、大変だったのが世界選手権大会開催のための基金作りです。連盟への毎年のクラブ加盟費の他に、各地のパイプクラブの会員1名当たり年間500円を拠出してもらう算段を立てましたが、難色を示すクラブもあって予定通りなかなかお金が集まらず、苦心惨憺でした。

 

それでも昭和51年(1976年)11月6、7日に東京・帝国ホテルで開催した第3回世界パイプスモーキング選手権大会は、裏方となって支えて頂いた日本専売公社を始め煙草関連の多くの企業の協賛を得て、盛大に行われ大成功を収めました。柏木PCJ会長以下、PCJの役員全員が強い団結力で結ばれ、大会が上首尾に終わるよう奮闘した結果です。

参加した欧州のパイプスモーカーからは「こんな豪華な大会とは思わなかった」とお褒めの言葉を頂いたことを鮮明に覚えています。

 

その後、1990年に東京で2度目となる第7回世界選手権大会を開催し、2018年には東京で3度目となる第14回世界選手権大会を開催。いずれも大盛況、大成功に終わりました。CIPC加盟のナショナルクラブで、計3度も世界選手権大会を開催したのは日本パイプクラブ連盟だけです。日本パイプクラブ連盟のパイプスモーカーは大いに誇って良い歴史と伝統だと思います。

 

パイプ喫煙が大好きだというだけで人が繋がった趣味の団体が、手弁当で毎年全日本選手権大会を開催し、ホームページを開設して社会に門戸を広げ、半世紀もの期間、脈々と続いているのは稀有のことだと思います。ここでいちいち名前は挙げませんが、多くの立派なパイプ愛煙家の方が活動に情熱を燃やしてきたからだと思います。喫煙を巡る環境は厳しいものがありますが、人類の叡智の拡大と学問の発展に寄与し、永く受け継がれてきたパイプ喫煙という素晴らしい嗜好を今後も末長く受け継いでいって欲しいと念願しております。

JPSC 村上征一

 

参考資料:日本パイプクラブ連盟創立20周年記念誌より一部抜粋