パイプの愉しみ方

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英国ロイヤルバレエ団「白鳥の湖」 映画鑑賞記

愛煙家・バレエ愛好家 宇検邑一郎

 

 

英国ロイヤルバレエの映画を、折しも天皇皇后両陛下の英国御訪問時に観劇した。2024年4月に英国コベント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスで2ヶ月間のロングラン公演をしたバレエ「白鳥の湖」を収録して6月中旬から世界各地の約1000映画館で上映しているものだ。 日本では東宝東和配給により全国の主要都市で1〜2週間上映された。上映時間は約3時間30分。

 

2023/2024シーズンの今回の白鳥の湖は、マリウス・プティパ/レフ・イワノフの原振付を故リアム・スカーレット版の追加振付と演出。白鳥の湖は長くアンソニー・ダウエル版だったが30年ぶりの改訂だ。美術・衣裳はジョン・マクファーレン。
今回主役のオデット/オディールはヤスミン・ナグディ、ジークフリート王子はマシュー・ポール。

映画を観た感想から先に言おう。
ラストの第4幕が圧巻だった。オデットが愛のために自己犠牲で湖に身を投げ、王子が遺体を抱き抱えた場面では、数多くのご婦人観客がすすり泣いていた。魂を揺さぶられる演出と振付だった。私も不覚にも涙が溢れてしまった。それほど素晴らしかった。 私はこれまで数えきれないほど多くの白鳥の湖公演を観劇してきたが、観客を泣かせるほど感情移入させた見事な終幕はこれまで一度も経験がなかった。大根演技のヤスミンでも客を泣かせる演出と振付に鬼才リアム・スカーレットの才能の凄みを感じた。35歳での早逝が惜しまれてならない。

 

26歳の若さでロイヤル・バレエ団の常任振付家に就任したリアム・スカーレットは2020年に不祥事で同バレエ団を突然解雇され、同バレエ団から絶縁宣言された。このことはマスコミに大きく報じられた。解雇理由はロイヤルバレエ団の付属学校の複数の生徒に不適切な性的アプローチをしたと言うことらしい。 詳細は不明だが、犯罪性のある深刻なものではなかったようだ。実際、警察に逮捕されたりしていない。日本での報道は「セクハラ」と報じていた。

 

そしてリアムは翌年4月に自死により自らの人生に決着をつけた。自死の前日には突然、王立デンマーク劇場からも彼の代表作「フランケンシュタイン」の公演キャンセル通告があったと言う。 理由は明らかになっていないが、同様の不祥事と見られている。リアムの死を知ったロイヤル・バレエ団のかつての同僚ダンサーたちが自死の原因は「現代社会の行き過ぎたキャンセル・カルチャーだ」と声明を出した。

 

キャンセル・カルチャーとは日本では耳慣れない言葉だが、ウィキペディアによると「2010年代後半から使われるようになった用語で、容認されない言動を行ったとみなされた個人が排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象を表す。 この排斥は対象者の社会的・職業的な領域に及ぶこともあり、有名人に関するものが最も注目されやすい」とある。昔から同様のことはあったのだろうが、最近になってそうした風潮が益々猖獗を極めていることは読者の皆様もご承知の通りだ。

 

つまり社会規範が厳正になり、芸術家も品行方正でなければならないと言うことだろう。それはその通りかもしれない。 しかし各方面で傑出した才能の持ち主の天才、鬼才と呼ばれる人たちは昔から奇人変人が多く、性的嗜好も含めて言動のブレーキが効かず、行き過ぎや奇行が目立つことはご承知の通りである。 どこかが突出しているからこそ、何かが欠けていると受け止めるしかない。

 

リアムが果たしてどういう性的不祥事を起こしたのか分からない以上、軽率なことは言えない。ただ天才振付家の名声を恣(ほしいまま)にした有名人だからと言って、社会的に追い詰めて葬り去ろうとしたのは如何なものかと感じた。

 

皮肉なことに今回の「白鳥の湖」はロイヤル・バレエ団が自ら絶縁宣言した筈のリアム・スカーレット版の演出と振付。しかも映画の幕間の司会役のダーシー・バッセル(元同バレエ団プリンシパル)ばかりか同バレエ団の芸術監修ラウラ・モレーラ(同)もリアム・スカーレット版を臆面もなく褒めちぎっていた。芸術家としての偽らざる本心を素直に語ったものだろう。 リアムを結果的に死に追いやった同バレエ団経営陣への抗議の意思表示なのかもしれぬ。とは言え、外側の人間から見れば、リアムを褒めれば褒めるほど、ご都合主義と英国流の偽善が鼻に付く。

 

話を元に戻そう。美術・衣裳の絢爛豪華さはさすがにロイヤル・バレエと言うしかない。

並のバレエ団とは格が違う。美術・衣裳担当のジョン・マクファーレンの職人芸が光る。

 

王子役のマシュー・ポールは安定した気品のある踊りで、安心して観ていられた。はまり役と言っても良い。脇役陣の踊りとコール・ド・バレエ(群舞)は当然のことながら見事。 誰もが知っている小さな4羽の白鳥の踊りは呼吸が合って完璧だった。スペイン、ハンガリー、イタリア、ポーランドの王女達の踊りは練達の域に達していて大いに楽しめた。

 

オデット/オディール役のヤスミン・ナグディは踊りの技術は超一流。見せ場の第3幕の黒鳥オディールの32回転グラン・フェッテはダブル、トリプルも入れながら軸がほとんどぶれない超絶技巧で流石といったところ。なぜ彼女がプリンシパルなのかがよく分かる。

 

 

ところが残念なことに顔の表情を含めたマイム(演技)が単調なのだ。悪魔ロットバルトにより白鳥に変身させられたオデットの悲しみと可憐さ、悪魔の娘オディールの男を惑わす妖艶さを出せていなかった。 観ていて最初からずっと違和感を感じた。譬えて言えば身体能力抜群の器械体操選手が音楽に合わせて正確無比に踊っているという感じだ。おそらく日本の舞踊批評家連は商売優先で色々と慮って本音を隠すから、長年の一バレエ愛好家としていささか行き過ぎた酷評となることを承知で率直に言わせて頂く。

 

ヤスミンの良さを引き出す別の古典バレエの主要演目があるだろう。例えばラ・バヤデール、ライモンダ、ドン・キホーテなど。コベント・ガーデンでの2ヶ月間の白鳥の湖ロングラン公演では男女のプリンシパルが12組交代で主役を務めた。 なぜロイヤル・バレエの経営陣は、ミスキャストと言えなくもないヤスミン/マシューの舞台を殊更に選んで収録したのか、その意図が私には謎である。

 

これは2022/2023シーズンの「眠りの森の美女」でオーロラ姫とジゼル王子を演じたヤスミン/マシューの舞台の映画化にも感じたことだ。穿った見方かもしれないが、同バレエ団経営陣はどうやら最近の米国ウォルト・ディズニー社の映画の轍を踏もうということかもしれない。
一バレエ愛好家としては、「押し付けないでくれ。それは観客が判断するものだ」と言うしかない。