パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

オランダ(オイルスコート)パイプ世界選手権大会参戦記

JPSC 小枝義人

 

今年のパイプスモーキングの世界選手権大会はオランダの田園都市オイルスコートで10月12日に開催された。いつもどおり、リタイア仲間4人で参加を決め、台北経由の中華航空機でアムステルダムのスキポール空港に降り立ったのは大会数日前。アムステルダムでゆっくり観光し、鉄道とバスを乗り継いでオイルスコートに隣接する工業都市アイントホーフェン入りした。

 

数年前の東京大会の際、日本チームの隣がオランダ一行で、彼らが「最近は喫煙がうるさくなってね」と語りかけてきたことが記憶に残っているが、長年、国際パイプクラブ委員会(CIPC)の会長を務めたのがオランダ人で、彼が今回で退任するためか、地元開催となったらしい。

 

筆者を含め3人はオランダ訪問は初めてだ。運河が連なる風景は写真で見たとおりで、われわれの宿泊したアムステルダムの宿も運河に浮かぶボートハウスだった。

 

 

 

最近はかなりの日本人が参戦する世界選手権大会やワールドカップだが、今回は参加者が3人だけといささか寂しい。なぜそうなったかは後述するが、喫煙が規制され、今回のオイルスコートの会場も郊外に急遽建てられ、終わったあとはすぐ解体されたプレハブ(なんと表現すればいいのか)ハウスでの開催、183人という比較的少人数の大会となった。会場の周囲は牧場で羊やヤギが草を食んでいた。

 

大航海時代以来、海洋国家のオランダはタバコを新大陸から大量に持ち込んだと思うが、かつては大量のパイプ生産を誇った同国も、近年は年間1万本程度らしい。こうなると産業としての維持も、パイプ職人の技術継承も難しくなってくる。

 

しかし、禁煙といっても、日本よりずっと緩い。屋外のカフェやレストランでは喫煙は事実上解禁、灰皿もあちこちに設置されている。欧州では喫煙は伝統文化として容認されているようだ。むしろ午後5時以降、アルコール類の販売は禁止だから、いつでも酒が買える日本のほうがおかしい気がする。

 

それでも大会公式パイプはオランダの名門、ビッグベン社製の立派なもの(写真参照)、日本勢は3人とも60分に届かず敗退。最長で55分という平凡な成績だった。

 

今回の優勝者はタイムも2時間を切り、1時間51分だったが、初の女性で大いなる拍手で讃えられた。大会役員を務めた柘製作所会長、柘恭三郎CIPC副会長によれば、「彼女強くてね、消えているかなあ、とみていると、ちゃんと煙が上がっているんだよ」と感心することしきり。

 

表彰式終了後、新たなCICP会長が紹介されたが、こちらも初の女性会長でイタリア人。黒づくめの衣装が決まっていて、さすがにファションセンスは抜群。イタリアでは女性宰相、メローニ首相が3年間、安定政権を維持しており、心強い限りだ。

 

ということで、来年秋のワールドカップ大会はイタリアのテルメ・フモサ(Terme Fumose)と発表された。ヴェネチアに程近い温泉がある小都市だ。サヴィネリという名門パイプメーカーが大会パイプを製作するのだろう。楽しみだ。思い出しついでに、サヴィネリのパイプを引っ張りだし、吸ってみた。晩秋の長雨後の夜、吸うパイプの煙はなかなかのもの。

 

年に1回、世界の仲間が集まって、クラブバッジを交換し、友情をあたためあう。分断の現代では、なかなか味わえない光景だ。筆者はブルガリア、台湾のメンバーとバッジ交換をした。

 

帰りのバスを待つ間、柘恭三郎さんに昨今の日本の喫煙産業事情を聞く機会があった。「昔は10数社のパイプ、パイプ煙草メーカーがあったけど、いまやうちと深代さんくらいかなあ、ずいぶんさびしくなったよねえ」。

 

「今日も元気だ。タバコがうまい」とは、昭和35年、池田勇人総理が新橋駅前広場での演説写真の背景に映っている看板の文句だが、その頃生まれた高市早苗総理もヘビースモーカーで知られている。成長戦略、稼げる農業、コメ増産は大いに結構だが、農業なら葉タバコ産業も入れてもらいたいくらいだ。税収にはずいぶん貢献している。嗜好品は文化ですからね。中曽根総理が唱えた「たくましい福祉と文化の国」日本を目指してもらいたい。

 

置き忘れたリュック、戻る

 

さて、アムステルダムからアイントホーフェンに移動中に起きた出来事で、仲間2人が大会に参加できず、日本人参加者がたった3人になった経緯を記しておきたい。これはアクシデントではあるが、結末はちょっといい話である。

 

還暦過ぎ、古希過ぎの高齢者集団4人が重いスーツケースを転がし、アムステルダム中央駅にたどり着いた。駅正面玄関の巨大な電光掲示板にはアイントホーフェンに停車する急行乗り場は8番ホームBと出ている。エスカレーターもエレベーターもないから、ふうふう言いながらスーツケースを持ち上げて階段を上がりホームに。あとは急行列車に乗って1時間20分後に宿泊先のあるアイントホーフェン中央駅に到着する‥‥‥はずだった。

 

ところがオランダ国鉄の切符を手配した仲間が、8番ホームBの掲示板を念のために見ると、乗車予定の急行列車が途中停車駅を表示している中にアイントホーフェンの駅名がないことに気付いた。

「何か変だ」と勘づいて乗務員を探して尋ねたら「今日は直行列車は走らない」とあっけらかん。理由は言わないが、どうやら山猫ストライキらしい。全面ストのゼネストだと機能ストップだが、地方の小規模ストだとなんとか乗り継ぎで行けるから問題ないと言わんばかりだ。オランダ語が分からず、現地の事情にうとい我々外国人はお手上げとなる。

 

「どうしたらいいのか?」と聞くと「乗り継いでいくしかない」と。乗務員がスマホに行き方を示した画像を見せてくれたので、それをもう一人の仲間が撮影し、日本語に翻訳する。どうやら、鈍行列車2本を乗り継ぐと、そこからは振り替え輸送のバスが運行されており、バスに40数分乗ると、次の駅に到着する。そこで再び列車に乗ればアイントホーフェンに着くことが分かった。

 

その鈍行列車が出発するのは隣の隣の4番ホームB。列車が出るまであと4分しかない! 皆、焦った。

 

焦りつつ、大きな重いスーツケースを懸命に抱えて階段を降り登りし、なんとか間に合った。次の列車も無事乗り継いで、バスにスーツケースを預け、ゆったりとしたシートに体を預けた至福の瞬間、彼から上ずった声が飛び出した。「あれ? リュックがない!」。

 

普段、沈着冷静な彼だが、乗る列車をきちんと確認し3人の仲間を引き連れて、大きなスーツケースを引きずって別のホームに移動させることで頭がいっぱいだったのだろう。アムステルダム中央駅8番ホームBのベンチにちょっと腰をおろした際に、肩からつい下ろしたリュックをそのまま置き忘れてしまったようだ。財布とパスポートは肌身離さず持っていたが、アムステルダムで購入した数々の土産品と常用薬、最近買い換えたばかりの大切なiPadなどが入っているという。

 

いっぺんに一同、暗いムードになる。そういえば7年前、スペイン・バルセロナから大会会場フィゲラスに向かう急行列車が、途中の停車駅ジローナを出発する寸前、列車内にスッと入った不良少年どもが彼のスーツケースを荷物置き場からサッと置き引きして逃げた事件があった。その時の被害はお土産品と衣類一式だったが、今回はより深刻だ。まあ出てこないだろうな、と皆覚悟した。

 

夕方、アイントホーフェンの宿のホテル別館のペントハウスに到着すると、60代と思しきホテルオーナーがまことに親切そうな人物で、「この間、日本に行ったが、食事が美味かった」などと話しながら、部屋に案内し、台所の電化製品、電気、ガスの使い方などを丁寧に教えてくれる。

 

そこで、リュック置き忘れの話をすると、彼は同情の念しきりで、「よろしい、明日朝8時にフロントに来なさい。見つかるかどうか分からないが、やれるだけのことはやってみよう」と言ってくれた。われわれはオランダ語が話せず、遺失物探しの方法は何も知らない。英語で遣り取りしても意思疎通がうまくいくとは限らない。オーナーの厚意に頼るしかない。とりあえずできる限りのことはしてくれそうだ。

 

翌朝、ホテルフロントにはオーナーとフロント係の息子さんが待機してくれていた。息子さんがインターネットでオランダ国鉄の忘れ物コーナーを検索したら、かなり似たようなリュックの画像が一つ写っていた。ありふれた黒色のリュックで、仲間はまさか自分が置き忘れるなど考えてもいなかったから特に目印は付けていないと言う。「似ていると思う。おそらくこれかなと思うが‥」と彼が自信なさげに言うと、息子さんがアムステルダム中央駅の遺失物取扱係にすぐに電話してくれた。

 

駅の遺失物係員がリュックの中に何が入っているかを尋ね、息子さんが英語に訳して、仲間が一つ一つ答える。息子さんとしばらく色んなやり取りがあって遺失物係員がリュックを開けて中身を照合して確認したようだ。「間違いない。このリュックです」と言ったらしい。息子さんは喜色満面で親指を立てた。安堵の声が皆から漏れた。横で見ていたオーナーさんも大層喜んだ。

 

誰かが持ち去ったのではと、八割方あきらめていただけに本当にうれしい。急行列車用ホームで、長距離旅行の人しかいない場所だったことも幸いしたのかもしれない。

 

山猫スト継続中とあってアムステルダムにリュックを取りに戻れば、往復で1日つぶれる。一人でも大丈夫だろうが、こういう不慮の事態の場合は誰かが付き添った方が賢明だ。仲間のうち1人が同行してくれ、各駅停車の列車とバスを乗り継いでアムステルダムへ。これが、大会は4人ではなく、筆者ともう1人の計2人だけが参加することになった所以だ。

 

筆者らが大会を終えて、夜、宿に戻ると、アムステルダム往復組が先に戻っていた。一件落着のすっきりとした気分で、ハイネケンビールとワインで乾杯だ。名物のゴーダチーズもうまい。前夜とはえらい違いだ。

 

 親切なホテルのオーナーとフロント係の息子さんに御礼をしなくては、となった。たまたま彼は、仲のいいスロバキアのスモーカーに日本のお土産として上等な博多人形を持ってきていた。大会に出場できず渡せなかったこの人形を、ホテルのオーナーにプレゼントすることにした。オーナーは大喜びで、博多人形を彼が日本旅行で購入した湯呑みと一緒にロビーに飾り、ホテルの顔にしてくれた。

 

人形をオーナーの自宅に飾るよりも、こうやってホテルに飾れば、宿泊する各国の旅行者に日本文化を感じてもらえる。これほど意義深いお返しはない。日蘭交流に博多人形が一役買うことになった。アメリカ生まれのセールロイド、「青い目の人形」という童謡があったが、こちらは日本生まれの「黒い目の人形」だ。オーナーからフロント奥の喫茶コーナーのアート・カフェに飾った人形の写真が送られてきたので掲載しておく。

 

日蘭交流の歴史は江戸時代の長崎・出島以来、400年以上で長い。そういえばアムステルダムの国立美術館に出島を描いた作品もあった。オランダの人々は親切だった。目が合うと必ず微笑んでくれた。足腰の悪い筆者が地下鉄やトラムに乗ると、皆すぐに席を譲ってくれた。地下鉄で席を空けてくれた若い女性は、バッグに日本の神社かお寺のお守り、六文銭をぶら下げていた。

 

乗り継ぎバスで重いスーツケースを軽々と運んでくれたイケメンの若いドライバーが、たどたどしい日本語を話してくれたのにも驚いた。どうやらアニメ、漫画で日本語を覚えたらしい。アジア人旅行客も多いので、わかりやすいように、われわれが日の丸バッジを帽子や上着に目立つようにつけていたのも幸いした。

 

リュックが無事に戻ってきたことで、われわれのオランダやオランダ人への感情は、感謝の気持ちで一杯になった。ありがとう、オランダ。