パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

パイプをこよなく愛した画家 菅野圭介

絵画に造詣の深いパイプ仲間のお誘いで四月下旬の土曜日、横須賀美術館まで足を伸ばした。生前、パイプをこよなく愛し、作品の静物画にもよくパイプを描いていた鬼才菅野圭介画伯の回顧展覧会が開催されたからだ。

田舎自治体が自らの分を弁えず雨後の筍のように競って設立している美術館の類は、「箱物行政」とその愚劣さを指弾されるように建物だけは立派だが、所蔵品は貧弱極まりない例が大半である。

目利きに頼んで時間をかけて良い絵を蒐集し、それから美術館を作って展示するというのが本来のあり方だろうが、田舎自治体は豪華な建物だけを先に作って、所蔵品は予算をケチって後から細々と集めるというのがほとんど。まるで本末転倒である。

おまけにそれまで芸術には縁もゆかりも無かった自治体の古手の吏員が、碌な仕事もしないくせに勿体だけはつけて館長や副館長あたりに納まり、高禄(税金)を食んでいるというのが通例である。これが我が国のお粗末な「地方自治」とやらの実態である。

という訳で、親しいパイプ仲間から誘われても、休日にわざわざ交通費をかけて行くのも億劫だなというのが本音だったが、今回の展覧会は収蔵品の展示ではなく、菅野圭介の絵を集めた新聞社企画の全国巡回展というので足を伸ばす気になった。

行ってみると、全国の美術館や個人愛好家などが所蔵する菅野圭介の作品をよくもまあこれだけ一堂に集めたなと思うほどの充実した立派な展覧会だった。あまり期待していなかっただけに嬉しい驚きだった。読売新聞社の主催だそうで、協賛会社に一流企業が名を連ねているだけのことはあった。地方の美術館は、力量と実績のある新聞社が企画立案してやらないと、人が集まる充実した展覧会は難しい。

菅野圭介は明治42年(西暦1909年)、東京の生まれ。父は早稲田大学英文科教授という当時の恵まれた知識人家庭に育った。旧制東京高等学校在学中に絵画の道を志し、京都帝大英文科では授業に出ないで、下宿で絵を描いてばかりいたために、除籍となり、その後、昭和10年(1935年)に欧州に渡って2年間の絵画放浪を続け、フランスのフランドランに師事して昭和12年に帰国。独立展に出品して児島善三郎らの絶賛を受けて絵描きとして自立。以後、自由奔放な画風で人気を集めたが、昭和38年(1963年)に53歳で早世した。

圭介の甥にあたるジャズピアニスト菅野邦彦氏によると、菅野圭介は3回結婚し、3回改名するなど私生活でも自由人そのもの。こよなくパイプを愛し、いつもアトリエでパイプを咥えて画業に打ち込んでいたという。

当日は、展覧会初日とあって、記念行事として「天才クニ」の異名を持つ菅野邦彦氏のジャズピアノ演奏会があり、おまけに邦彦氏が、圭介の作品の前でインスピレーションの赴くままにリコーダーを即興演奏するという余興もあって、普段は静かな美術館も多くの美術愛好家が詰め掛けて賑わった。

菅野圭介の作品には人物がまったく登場しないのが特長だ。作品のすべてが風景画と静物画である。静物画には、テーブルの隅っこ置いた白いクレイパイプか黒のブライヤーパイプがよく描かれている。圭介が描くちょこんとしたパイプは、事物を感性のままに捉える一方で、わざとらしい自己主張を嫌った圭介自身の投影かもしれないと感じた。

菅野圭介がパイプを嗜むようになったのは、おそらく第二次大戦前の古きよき時代の欧州を放浪中のことであろう。邦彦氏の実兄である往年の著名なオーディオ評論家である菅野沖彦氏は、我が国でも有数のパイプ愛好家として有名だが、菅野邦彦氏によると、「叔父貴の圭介の影響を受けて兄貴もパイプを始めたに違いない」そうだ。かく言う邦彦氏は普段はもっぱらシガレット派だが、最近はパイプ好きのジャズファンとの付き合いをきっかけに、時々パイプを嗜むようになったという。

土曜日の午後、圭介の独特の才能が迸った多くの絵を心行くまでじっくり鑑賞しながら、画家と、ジャズピアニストの甥と、その兄のオーディオ評論家という芸術家一族をつなぐパイプの不思議な縁にも想いを馳せる、中身の濃い時間を過ごせた。


菅野圭介展 2010年4月24日〜6月13日(横須賀美術館)他、巡回展有

横須賀美術館 HP http://www.yokosuka-moa.jp/exhibit/kikaku/802.html