煙から世界を読む

煙から世界を読む

横浜国立大学教授、情報哲学者 室井尚の「煙から世界を読む」
第3回 「禁煙」の文化的背景

煙草の問題を考えていくと、必然的に文化や宗教の問題に突き当たらざるをえなくなります。

言うまでもなく、健康に与えるシガレットの害を過大に喧伝して、近年の過激な嫌煙ブームを作り出したのはアメリカ合衆国です。同じくアングロ=サクソン系のイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの国々でも極端な喫煙規制が行われているのは周知の通りです。

アメリカという国は不思議な国です。煙草を世界中に伝え、世界一の煙草産業を生み出したアメリカが、今度はそれらを全面的に締め出そうとしているわけですから。

イギリスの禁欲的なピューリタンたちによって作られたこの国は、「自由の国」の理想を掲げながらも、悪名高い1920年代の禁酒法をはじめとして、多数派の主張を押しつけ少数派の愉しみや権利を迫害してきた歴史をもっています。アメリカで生まれたモルモン教やクリスチャン・サイエンスなどの新宗教もピューリタニズムに輪をかけて厳しい禁欲を信者に課しています。

「禁欲的」という言葉は、文字通り自らの内なる欲望を抑制し、欲望を「悪」だと捉える思考法を意味しています。酒や煙草やセックスはもちろんのこと、場合によってはコーヒーや砂糖さえ禁じられる。そして、そういう自分たちの考え方が「正しい」といったん思い込むと、それを周囲の人たちに推奨するばかりではなく、無理にでも押しつけようとする傾向があります。なぜなら「正しい」ことを否定する者はすべからく「悪」であり、「異教徒」なのですから。

ですから、禁欲的な「ダイエット」や「フィットネス」などの健康法ブームがアメリカから始まったことには理由があるのです。

その一方で、ビジネスの世界ではアメリカほど飽くことのない利益追求を求めている金権国家も存在しません。アメリカの大金持ちは、他国の大金持ちとは比較にならないほどの大金を稼いでいます。それなのにいくら稼いでもけっして満たされることなく、さらに金儲けをしなくてはならないという強迫観念に取り憑かれています。

少し前に、広大な自宅敷地内に遊園地まで作ったマイケル・ジャクソンの話題がテレビなどで盛んに取り上げられましたが、言うまでもなく本当に儲けているのは彼ではなく、彼を使いレコード産業を牛耳っている資本家たちなのです。彼らはいくら儲けても満足することはありません。さらに大きな利益を得ようと、次から次へと新しい金儲けを求めて、あくせくと働いています。アメリカだけが著作権の保護期間が95年に延長されており、元々50年だったヨーロッパや日本にも70年への延長を迫っているなどという話にも、実はこうした文化的背景があるのです。

一見するとここには矛盾があるように見えますが、そうではないのです。マックス・ウェーバーが名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で書いているように、プロテスタントやピューリタンの禁欲主義的で排他主義な生き方こそが、資本主義を生み出し、それを育んできた精神そのものなのです。

彼らにとって一番大切なことは、自分の人生の意味を金銭的に計れる価値、計量できる価値、普遍的なひとつの「物差し」で計れるようにすることです。彼らが自らの欲望を抑制しつつも、無限の富を得ようとあらゆる努力を惜しまないでいるのは、自分の人生の中でどれだけ富を手にすることができるかということが、そのまま自分の人生の価値に結びついている客観的な「物差し」だと信じているからなのです。

ひとつの物差しを大切にするということは、それ以外の物差しを認めないということです。健康に関してはどれだけ病気の発生率を抑えられるか、どれだけ寿命が長いかというのが、この物差しになります。ですから、たとえば夭折した天才や英雄などという存在は、この物差しからは外れることになります。生の意味とか、充実した人生とかいう基準軸はここには含まれません。健康に関するリスクをできるだけ遠ざけて、まるで動物園の動物のように、ただひたすら長く生きさえすれば、それが最も価値ある生き方なのです。

このような観点から見て、最近、考えさせられるニュースがありました。


三重県伊勢市で「七人のメタボ侍 内臓脂肪を斬る!」と題した市長ら市幹部7人の減量企画に参加していた同市生活支援課の男性課長(47)が急性虚血性心不全で死亡したのです。同課長は、毎日のジョギングや話題の「ビリーズ・ブートキャンプ」などで、ややスリムにはなっていたといいます。しかし急激な減量が彼の体調を破壊したのでしょう。同市によると企画は表題を「六人のメタボ侍」に変更し継続するそうです。*1


「メタボリック症候群」は健康の赤信号と言われています。男性でウエスト85センチ以上は危険?−というような言説が巷に溢れています。疫学的調査によれば、脳梗塞や心筋梗塞の危険性が顕著に高まるというのです。だから、ウエストが85センチ以上の人は早急に減量をしないと例外なく危険‥‥何か「煙草の害」をめぐる言説ととてもよく似ていますね。煙草の場合も、「煙草病」という名前が発明され、禁煙治療を健康保険の適用対象にするなど、「病気」扱いにして排除されようとしています。

それにしても、世の中のすべての男性がウエスト85センチ以上になると「メタボリック症候群」というのは何という乱暴な決めつけでしょうか? 人によって体型も、脂肪や筋肉の付き方も、生活習慣も全く違っているのに、ウエスト85センチ以上がすべて危険であるという言説を鵜呑みにして、その結果死んでしまったとは何という皮肉なのでしょう。

しかし、翻って考えてみれば、アメリカや嫌煙論者たちはこれと同じことをあらゆる領域で行っているのです。「グローバリゼーション」とは、アメリカ人が合理的だと思い込んでいる「物差し」を世界のすべての国に押しつけようという暴力にほかなりません。問題は彼らがそのことに無自覚であるということです。基準をひとつにすることが経済や貿易の透明性を高め、あらゆる面において合理的なことであり、結局はすべての人を幸せにすることだと彼らが心の底から確信しているからこそ、アメリカは自らの「物差し」を地球上のすべての人に押し付けようとしているわけです。それはちょうど、喫煙者に煙草をやめさせることが「喫煙者自身にとっても幸せだ」と決めつける嫌煙論のあり方に酷似しています。私たちはこうした状況をまさしく「グローバリゼーション」と呼ぶことができます。

私はこのような「世界を一つの物差しで見る」という視点が広まっていくことに深い危機感を抱いています。マーシャル・マクルーハンは昔「グローバル・ヴィレッジ」ということを唱えました。電子メディアの発達によって、未来の世界はひとつの大きな村になるというのです。

いまやその予言は悪夢のような形で実現されつつあります。本来の「グローバル・ヴィレッジ」は複数形でなくてはならなかったはずです。多数多様の異なる価値観をもつ複数のヴィレッジが平和的に共存するはずの「グローバル・ヴィレッジーズ」が、いまやアメリカの価値観を受け入れない者たちをすべて「村八分」にするような単一の巨大な「帝国=村」に変貌しつつある。だから、私たちはポストモダンという「新しい中世」に生きていると言えるのです。

私は別に「環境運動」に反対しようとは思いません。しかし、時折「温暖化ガスの規制に関して世界は一丸となって取り組まなくてはならない」というような決めつけを目にすると違和感を覚えます。たとえ、化石燃料の過剰消費が本当に地球気象の変化の原因であったとしても(その科学的根拠にはいささか疑問が残りますが)、それに責任があるのは主にアメリカをはじめとする一部の先進国だけなのですから、第三世界まで巻き込んで、飢えや貧困に苦しんでいる発展途上国に高コストの環境政策を押しつけるのはおかしい。ましてや、それに協力的ではない国々に圧力をかけるのはもっとおかしいと思うのです。

「世界が一丸となる」のはとても不気味なことです。それは世界の多様性をひとつの物差し(グローバル・スタンダード)に押し込め、全員が同じ絨毯の上でルールを守って椅子取りゲームをしなくてはならないというとても窮屈な社会を作り出しているからです。そのルールを受け入れず、絨毯を剥がしたり、椅子取りゲームに参加しない人や集団はすべて「異端者」か「テロリスト」であり、絶滅しなくてはならない「悪」だと決めつけていくのが、グローバリゼーション論者の常套手段です。

そして、それはまさしくWHOやFCTCが、煙草問題を通していま世界中に押しつけようとしていることなのです。ですから、皆さん、嫌いな人の迷惑にはならないようにして、それでも煙草を吸い続けましょう。それは法律や規範の問題ではなくて異質な他者と触れ合うマナーの問題であり、そしてまた異なる価値観や文化の多様性を擁護するための抵抗だからです。そして、何よりも煙草はとても美味しく、よりよく生きる上においてかけがえのない天からの贈り物であるからでもあります。


*18月18日付、スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070818-OHT1T00101.htm
室井尚(むろい ひさし):横浜国立大学教授、情報哲学者
2007.09.06