パイプの愉しみ方

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JPSC 外川広洋さん追悼特別例会

日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)は、6月21日夜、東京・銀座のカフェジュリエを借り切って、故外川広洋さんを追悼する特別例会を開催した。特別例会は会員出席が40名近く、これに加えて近隣クラブからなどの参加者もあり、会場は超満員で席が足りない状態だった。

JPSCは例会では通常、タバコ2グラムでミニコンペを行っているが、今回は時間の制約から変則の1グラムで行い、村上征一さんが35分の堂々たるタイムで今期初優勝を飾った。

終了後、ご遺族の奥様と令嬢をお招きしてある隣のレストランに移動。青羽芳裕世話人の司会で、外川さんを偲んで全員で一分間の黙祷を捧げ、続いて遺影に向かって皆で献杯した。

追悼の辞に移り、まずクラブ設立メンバーで最長老の関口一郎代表世話人が「外川君はいつも元気一杯の男だったから、クラブの運営で時々独走しがちだったとの声を聴くが、決してそうではない。全て私に事前に相談して私の諒解を得ていた」と故人のきめ細かな側面を振り返った。続いて外川さんと付き合いが長かった市川澪さんが、昔、世田谷の大豪邸に伺ったときの逸話や家族ぐるみの付き合いの思い出などを、ユーモアを交え、涙も時折滲ませながら披露した。

才人の外川さんはピアノ演奏が得意だったが、JPSCの次回の年次総会で外川さんとバイオリンとピアノのデュオ演奏を披露しようと約束していながら果たせなかったという杉原蓮子さんが追悼演奏としてモンティのチャールダーシュなど四曲を見事に弾いて盛大な拍手を浴びた。

仲間で酒を酌み交わし、盛大にパイプを喫いながら、故人の思い出話などが尽きぬ中、最後に遺族を代表して長女の寿安さんが「娘から見ても父はキャラのとても濃い人でしたが、パイプの仲間がこんなに集まってくれて本望でしょう」などと謝辞を述べた。

締め括りの挨拶として梶浦恭生世話人がJPSC発展に尽くした故人の思い出を語り、皆、会場を立ち去りがたい余韻が残る中、呑み仲間の森谷周行さん、司会者に指名されたカフェジュリエのママがそれぞれ短く弔辞を述べて二時間余りの追悼会を終えた。

JPSC事務局

追悼 外川さん

「私が日本パイプスモーカズクラブに入ったのはOBの斎藤さんからの紹介で5年ほど前。

規約に則り外川さんと梶浦さんの保証人で入ることが出来ました。

このときから外川さんには”かわいがり”を頂いておりました。皆さんもご存知の性格なので少し手荒いところもありましたが。

初心者で入り、パイプもよくわからなかった(今もそうですが)のですが、豊富な経験と知識でいつも得るところがありました。定例会、旅行会、その他イベント。

残念ながら途中から仕事が異動になり、今は遠方の地で勤務することになってしまったためお受けした恩を返す機会が無かったのが返す返すも残念です。ご冥福を祈ります。

JPSC 大川嘉敦

「今日大ショックを受けたのですよ、驚かないでよく聞いて下さいよ」との前置きに続いて、ご遺族から第一報を受けたJPSCメンバーの山崎先生から彼の訃報が聞かされた。

それを聞いてしばし呆然。5月2日、朝9時に仕事が終わるという彼と品川駅で待ち合わせて相田さんと連れ立って、6月4、5日に開催する旅行会の下見に行ったばかりだったからだ。

城ヶ島、三崎港を一日中歩き回り、マグロ料理を食べ、サザエのつぼ焼き、白魚をつつき、夕方から相田さん宅にお邪魔して、プランを練り上げ、夜11時頃、久我山駅で別れた。その時には全く異変の兆しもなく、いつもの通り手を振って別れたので、全く信じられない気持ちであった。そういえば3日にあけず電話してくる彼が、このところ電話が無いなと、ふと思った時もあったのだが。その時には全く気にしなかったが、疲労を蓄積させてしまったのかもしれない。

思い起こすと、平成12年になる。松戸の事務所に彼がひょっこり現れた。こちらの方へ来たので一寸立ち寄ったとの話なので、鰻をご馳走して別れた。毎回、会場の椅子が足りなくなりそうな盛会が続く今では信じられないが、その年の例会出席者は毎回10人以下、コンテストが出席者不足で3回も流会している。何とかせねばと、深慮遠謀の彼は偵察にやってきたのだ。

その内、総会に出席してくれと彼から電話があり、渋谷のバー・アゲインに呼び出された。行って見ると出席者は僅か12名。昔の隆盛を極めたJPSCの面影は全く無かった。これを立て直したいと頼まれ、事務局に引っ張り込まれた。

それから二人三脚でJPSCの運営に当たってきた。彼は次から次へとアイデアが湧き出てくる。色々な情報が伝わってくる。まるで四六時中パイプのこと、JPSCのことを考えているのではないかと思わせるほどだ。なるほどというもの、奇想天外な話、長い間暖めていた構想。単なるお思い付き、いろいろあった。彼の言うことを身の丈(つまりJPSCの財政)に合わせるのに苦労したが、彼のアイデアを実現させることは結構楽しかった。

アイデアが浮かぶと電話があり、いい話だなと言うと、彼は西荻窪へやってくる。仕事が終わったと言って午前10時だったり、まだいいですかと言われ深夜だったりする。日があるうちはこけし屋のテラスで、食事時になると駅前の台湾料理屋で、夜になればaiEaseという静かなスタンドバーで時を過ごした。

二人でパイプを燻らせながら、時には愚痴や悩み事にもつきあい、怪気焔も聞かされたが、殆どがJPSCの運営についての相談だった。その積み重ねで話は阿吽の呼吸で進んで行った。

彼の突然の訃報を聞き、何かポッカリ穴が空いたような気持ちと共に、二人三脚の足をもぎ取られたような痛みが走った。

JPSC世話人・事務局担当 梶浦恭生