パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

「50にして煙を知る」第33回 JPSC総会開催される

千葉科学大薬学部教授  小枝義人

「紫煙の彼方に」―菅野邦彦さんのピアノ

東日本大震災、外川さんの急逝、首相交代、目を転ずれば欧州恐慌、タイ大洪水、日本も世界も2011年は、色々な意味で記憶に残る年であった。

さて恒例のわがJPSC総会が11月26日土曜日、銀座で挙行された。60数名の参加者は会員だけでなく、クラブに縁のある方々が寄り合い、和やかに時が過ぎていった。

冒頭、世話人の梶浦さんが「3月の例会は震災直後で中止となりました。昭和42年のクラブ創立以来、人数が集まらずに流会はありましたが、中止は初めてでした。散々な年でしたが、今日はそんなこんなを含め、1年を振り返り、来るべき新年に向け、大いに楽しんでください」と、さすがのあいさつ。人生経験が違いますな。


さらに会場には特別ゲストを迎えていた。ジャズピアニストの菅野邦彦(すがの くにひこ)さんが、「俺もそこで弾きたい」とわざわざ足を運んでくれたのだ。

一昨年、パイプ仲間の紹介で、私は30数年ぶりに、学生時代の「アイドル」の快演に、この歳になってまた出あうことになった。話は長くなるがかまわず書く。


75年春 花の都 東京・秋葉原

1975年春、大学進学のため上京し、最初に向かった街は秋葉原だった。オンキョーのアンプ、CECのレコードプレーヤー、山水のスピーカー。夢にまでみたステレオセットだ。

貯金と入学祝いなどでかき集めた聖徳太子の1万円札13枚、有り金はたいての3点買いだ。「これから4年間、好きなだけレコードが聴け、映画が観れ、本が読める」―そう思うだけで胸が躍った。

2人部屋の学生寮に入ったが、同室になった仲間がこのオーディオセットを見て、大量のレコードを故郷から持ち込み、初めてジャズを聴いた。

マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンはさっぱりわからなかったが、1枚のアルバムには心が動いた。

73年に発表されたベーシスト・鈴木勲のアルバム「BLOW UP」(スリー・ブラインド・マイス・レコード)。確か年間最優秀録音賞にも選ばれたが、私にとってはサイドメン、菅野邦彦さんのピアノ「EVERYTHING HAPPENS TO ME」「LIKE  IT IS」の響きは鮮烈だった。

「なんだ、これは。こんなピアノ初めてだ」―ノックアウトされたのは私だけではなかった。

60年代からすでに玄人筋では評価は高かったが、菅野さんはこのアルバムをきっかけに人気が爆発する。

お兄さんで高名なオーディオ評論家・菅野沖彦さん(沖彦さんのパイプ愛好ぶりもまた有名である)のレーベル「オーディオ・ラボ」や「トリオ」などから、新作が次々に発表され、その神技的なプレイはジャズリスナーのみならず、音楽ファンにつとに知られることとなった。

ただ、天才にはありがちだが、その日の気分で出来不出来の差が激しい。名古屋で見たコンサートは気が抜けたような演奏で、なんだかわからないうちに終わってしまった記憶がある。

彼の手はショパンと同じ大きさだという。ピアノを弾くために生まれてきたのだ。

アルバムに掲載されていたファンクラブ宛に入会申し込みはがきを書いたら、幹事から「春休み、時間あればコンサートツアーに同行しないか」というような魅力的な返信(文字どおり葉書返信、Eメールなんかなかった時代です)をいただいた。

夏はすでに予定が入っており、それは実現しなかったが、レコードは毎日聞きまくっていた。

「枯葉」、「いそしぎ」、「波」などスタンダードナンバーが彼の手にかかるとまるで別の命が吹き込まれ、蘇るのだ。

ブラジル 御茶ノ水 銀座

76年、菅野邦彦とアントニオ猪木は絶好調だった。ところが絶好調の76年夏、菅野さんは突如ブラジルに旅立ってしまった。彼のノリはサンバの王国でも通用するだろうが、ブラジルはあまりに遠い。

それから30年後、学生を連れて訪伯したが、成田からサンパウロまでは24時間、文字通り地球の裏側だった。

いなくなれば、人は忘れてしまう。社会人になってから菅野さんが帰国したことを知る。発売されたレコードを聴いたが、どうも違うんだ。散漫なプレイで乱れ勝ち、名曲「4月の思い出」「黒いオルフェ」も76年まで.のものと帰国後では全然違う。

次に菅野さんに会ったのは97年秋、御茶ノ水「カザルス・ホール」でハープ奏者とジョイントコンサートがあった。20年ぶりのナマ菅野さんは、おだやかで流れるような旋律を弾いた。その音は青春の道標でもあった。菅野さんもいつのまにか還暦を過ぎていた。

さらに時は10数年流れ、一昨年、パイプ仲間の縁で、再び菅野さんのプレイを目の前っで聴く機会を得た。私の求める曲を次々に弾いてくれた。

そんな40年近い、細く長い縁が繋がり11月26日、菅野さんはわがJPSC例会に突如現われて、そのタッチを小川さんのコンガ、佐々木さんのボンゴとともに、仲間の前で披露してくれた。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼう。JPSCにいると奇跡ばかり起きる。お三方とも愛煙家で、紫煙をくゆらながら、総会の雰囲気にもよく溶け込んでいる。

シガレット好きの菅野さんは、パイプを見て、「僕も、兄貴や皆さんのようにやればよかった」といつも言う。今からでも遅くはないが。

開会早々、「FLY ME TO THE MOON」「CHARADE」でざわついた会場の空気が和やかになる。

お楽しみのビンゴゲームに菅野さんらも加わってもらい、そのあとふたたび「黒いオルフェ」「バラ色の人生」と続けば、50歳以上の会員ならおなじみの曲ばかりである。いやなことは全部忘れさせる菅野さんのピアノ。

そのまま都内のクラブの演奏に向かったが、仲間曰く「実に嬉しそうな表情だったなあ」。

僕はお気に入りの2枚のアルバムを持参し、サインをしてもらった。

「終わりよければ、すべてよし」としよう。それが生きる知恵ってもんだ。