パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

関口一郎 パイプと吾が人生を語る  −5−

――(旧制)中学校はどちらですか?

本郷の郁文館です。その頃からたばこを喫い始めた。職人の家だし、皆、職人が煙管(きせる)でたばこを喫っていた。その時分の(煙管用の)刻みたばこは、はぎ、あやめ、水府あたりで、はぎが一番安く、水府が上等だった。たばこに関心があったからそんな名前を覚えています。だから、(家でも)堂々と喫っていました。ただ、日本の刻みたばこはヤニ臭かったね。

――話が前後になって恐縮ですが、お生まれはどちらですか?

大正3年(西暦1914年)5月26日、浅草の生まれです。両親ともに江戸っ子です。親戚は全員東京育ちで田舎が無く、東京で育ちました。その内、母方の爺様が横浜に引っ越しまして、僕が小学校に入って夏休みになると爺様が僕を横浜に迎えにきて、ひと夏ずっと横浜で暮らしました。大震災の後まで夏は横浜で過ごしていました。

夏はずっと横浜にいたから、横浜に詳しくなって、子供用の小さな車輪が付いている自転車で横浜中を隅から隅まで走りました。丘が多いから、上まで上がるには足が重かったね。海から大きく上がったあたりに根岸の競馬場の跡があり、そのあたりに外人の家が建ち始めていました。

そこで出会ったのがたばこです。外人の中年の紳士とすれ違うと、今まで嗅いだことが無かった匂いがした。何だろう、気分の良い匂いで、香水じゃない。とても好い匂いがした。

その良い匂いがたばこだとわかったが大震災の後です。大震災の後、イタリアの飛行船の設計者で探検家のウンベルト・ノビレ少将が日本に来て、報知新聞の主催で北極探検について講演しました。

その講演を聴きに浅草から有楽町へやってきて、せっかく都心まで来たのだから、外人連中の中であの香りをさせるのがいるかなと思って帝国ホテルまで来てうろうろしていたら、すれ違った時にあの横浜で嗅いだ匂いがする。良い香りだと思って見ると、パイプに火を点けている紳士がいた。ああ、これはたばこの匂いだと確信しました。男の香りがこれだと思った。

余談ですが、昔の日本の女の人の香りは香水ではなく、丁子(ちょうじ)でした。鬢付け油に丁子油の香りが含まれていて、丁子の香りがご婦人の香りだった。少年時代から香りに敏感なことが、後にコーヒー屋を始めるきっかけにもなりました。

これも余談ですが、僕は横浜の南京町、今の中華街に京劇の劇場があり、随分観に行きました。色んな芝居を出し物にしていましたが、言葉は分からないが、勧善懲悪の筋書きだから、話の流れは分かる。その中で、日本の芝居でも取り入れているのがあるね。京劇では旗を背中に背負って出てくる人物がいる。旗の模様や数で、身分や役割を示している。観客はそれを承知で観ている。たとえば、黒衣(くろこ)が舞台を横切ると、黒衣の旗で、これから雨が降るとか風が吹くとか、前触れになる。子供心に合理的に出来ているなと感心しました。歌舞伎がその方法を取り入れているね。まあ、子供の時分に、随分、京劇は観ました。

〔続く〕

(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)

日本パイプスモーカーズクラブ