パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

関口一郎 パイプと吾が人生を語る  −6−

――小学生の頃はどんな少年でしたか?

理科に興味を持ち、誠文堂新光社が出版している子供の科学を読み始めました。科学ジャーナリストの原田三夫編集長で、大震災後に出版が始まり、それを読み始めてから理科に興味を持ち始めました。

子供の科学は鉄道模型とか模型の作り方などをよく記事に掲載していた。そのうちに子供科学の中に無線の記事が出始めました。当時はまだNHKもなく、ラジオ放送も始まっていなかった。(千葉県)船橋に船舶用のトンツーのモールス信号の送信所(海軍無線電信所船橋送信所)があって、逓信省の送信所が併設になりました。

そんなことが記事に書いてあって、NHKができる前、大震災の翌年の大正13年に東京、芝浦に仮放送所が出来て、(大正14年に)そこから音声の試験放送が始まった。当時は音声を受信する装置は鉱石受信機で、音が小さいのでレシーバーで音を聴きました。子供の科学に鉱石受信機の作り方が書いてあったので、僕は鉱石受信機を作って聴いていました。

当時は、ラジオのことを無線電話と言っていた。ラジオというのは新語です。鉱石受信機から発展して真空管を使うラジオに移行しました。当時は真空管は国産しておらず、ドイツのテレフンケン製の真空管の三極管を使って、三極のフィラメント、プレート、グリッドにサブグリッドを一つ入れてグリッド2つの真空管を作り、それを使ってロシアのハバロフスクの放送を聴いていました。

中学4年の時でしたか、無線雑誌のラジオ製作の懸賞募集に入賞して、5円という大枚の賞金を貰って、そのお金で憧れのパイプを買いました。確か、BBBのベストメイクの下のウルトニアという中級品のパイプと、パイプたばこは確か英国製のスリーキャットでした。たばこ缶に猫の絵が描いてあった記憶があります。

昭和に入って昭和の2、3年頃でしたか、憧れのパイプを買って内緒で喫い始めたのが17、18歳の頃。だから80年間ずっとパイプを喫い続けています。

忘れもしないのが昭和9年に日本で始めて国産のパイプたばこ桃山が出来た。もうその頃には僕はパイプ党としてかなりの年季が入っていました。国産のパイプたばこが出来る前は、カナダのフランス語のたばこのオンクル(アンカー、Tabac Des Ancres)を喫っていました。

パイプたばこは東横の百貨店に時々買いに行っていました。スリーキャッスルは高かった(英斤4分の1=112・5グラムで4円50銭)が、オンクルは値段も安く量も多かった(100グラムで95銭)。学生服で買いに行きましたが、何も言われずに売り子さんが売ってくれました。(未成年者が)たばこを買うのに一つも苦労はありませんでした。

――当時は、未成年者の喫煙に世間も寛容だったのですね。

シガレットは、皆、内緒で喫っていました。ゴールデンバット、吸い口つきの朝日、敷島は一般の人が喫っていましたからね。ゴールデンバットは10本入りで一箱7銭と高く,一番安いのがカメリヤ。強いたばこではリリーやエアーシップ。学生も内緒で喫っていました。

〔続く〕

(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)

日本パイプスモーカーズクラブ