パイプの愉しみ方

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第18回 ショパン国際コンクールを聴いて その3

愛煙家 伊達國重

ショパンコンクールの本選の第1位から6位までの順位は発表されたが、肝心の採点が公表されない。首を長くしてずっと待っていたが、いつまで経っても公表されない。ショパンコンクールを主催したショパン研究所は、採点結果を本選、予選ともに発表すると大会前に大会実施要領で発表していたから、自ら約束を破ったわけだ。


何故だ。おかしいと思うのは当然だろう。おそらく大揉めに揉めてしまって、公表すると不都合な審査の裏事情がバレてしまうのを恐れてじゃないか、と邪推されても仕方がない。


前回の第17回は第1次、2次、3次予選と本選の採点が大会終了後に直ぐに発表されたが、今回は第1次、2次、3次予選の採点発表に1週間ほどかけている。これがそもそも不可解極まる。各予選の採点結果をそのまま発表すると不都合なことがあるので、何か巧妙な辻褄合わせをしたと見るのが普通だろう。


世界中の優れた若手ピアニストが自らの卓越した演奏技術とショパン解釈の深さを競い合うのが、この世界最高峰と言われるコンクールの目的なのだから、最も大切な審査に不透明感が漂うのはあってはならないことだ。コンクールに応募するためも物心両面で物凄い努力と労力を費やした若手ピアニスト諸君に失礼だろう。


ピアニストの優劣を審査員の主観で判定すると言う音楽コンクールの性格上、審査結果にあれこれ批判はつきものだ。だからこそ審査は高い透明性を確保し、公明正大でなければならない。審査結果が疑念を生じさせるものであれば、大会の権威が揺らぐ。


実際、ショパンコンクールについて私は20年以上前から既にその権威を疑い、不信感を次第に募らせてきた。ここ数回の大会の終了後、優勝者や上位入賞者の演奏を生で聴いたり、C Dを購入して聴いてきたが、簡単に言えば「確かに演奏はなかなか上手だが、心を揺さぶる感動がない」が大半だった。大変申し訳ない言い方だが、「ありきたりで詰まらない」のだ。


具体的に名前を出そう。上位入賞者まで含めると煩瑣になるのでわかりやすく優勝者に限ることにする。マウリツィオ・ポリーニ(1960年優勝)とマルタ・アルゲリッチ(1965年優勝)の両巨匠以後、真の意味で優勝に値したピアニストは、私見ではクリスチャン・ジメルマン(1975年)、スタニスラフ・ブーニン(1985年)、ラファウ・ブレハッチ(2005年)の3名だけだ。


その他の大会の優勝者は、今回のブルース・リウ(劉曉禹)も含めて優勝に値しない。大胆なことを書くと驚かれるかもしれないが、心あるクラシック音楽関係者は本心では分かっている筈だ。しかし音楽業界で食べていくのに差し障りがあるので言わないだけだ。私は音楽業界とは関係がないから本当のことを書く。


昔話をすると、私がポリーニ、アルゲリッチの生演奏を聴いたのは、私がまだ若かった時だ。「凄い!」と圧倒されてクラクラした記憶がある。「これが本物の天才ピアニストだ」と心の底から感動した。今では知らない人はいない巨匠の地位を確立している。演奏自体は若い頃の方が遥かに素晴らしいが、老ピアニストとなった今でも輝くものがある。


ジメルマン、ブーニン、ブレハッチも素晴らしかった。カリスマ性の閃きがあった。再現芸術である音楽の神髄を掴んでいる演奏家だと感じた。


その他の大会の優勝者も勿論良いピアニストである。しかしカリスマ性がある傑出したピアニストではない。


冷静に考えれば、真に天分のある偉大なピアニストがコンクールの都合に合わせて定期的に5年おきに出現する筈がないではないか。大会費用を負担してくれる様々なスポンサーへの配慮などという、いわば大人の裏事情で無理矢理優勝者を出しているに過ぎないのだ。


だから優勝者無しで最高位を2位とした第12回大会(1990年)、第13回大会(1995年)のように、今回第18回大会も、前回第17回大会(2015年)、さらに前々回第16回大会(2010年)も、本当は優勝者無しで最高位は2位もしくは3位あたりとすべきであった。


さらに遡れば、東洋人が初めて優勝したと話題になった第10回大会(1980年)のダン・タイ・ソン(ベトナム)も、本当は1位、2位無しのせいぜい3位あたりが順当だったと思う。


ちなみに1981年だったか、私はダン・タイ・ソンの日本での凱旋コンサートを期待して聴きに言ったが、がっかりした記憶だけが鮮明だ。モスクワ音楽院仕込みの優等生の模範的演奏で、演奏技術はとても優れていたが、彼のショパン解釈が本物とは思えなかった。音楽評論家連中は絶賛していたが、どこか嘘臭かったのだ。勿論、感動しなかった。今、彼はコンサートピアニストは諦めてピアノ教師の道を歩んでいる。


第14回大会(2000年)の優勝者ユンディ・リ(李雲迪=中国)も同じだった。ピアノ演奏技術は確かに上手いが、感動はなかった。音楽学校で即成栽培された優等生が厚化粧で誤魔化したショパン解釈を披歴していると感じた。本物ではないというのが私の直感だった。


ついでに言えば前回第17回大会優勝のチョ・ソンジン(趙成珍=韓国)はダン・タイ・ソンやユンディ・リと比べると、かなり良いが、それでも感動は今ひとつだった。天分はそこそこあるので、惜しいところだ。やはり優勝者無しの2位〜3位あたりが順当なところだったろう。


私は東洋系のピアニストに偏見を持っているわけではない。逆だ。同じ東洋人としてむしろ贔屓目に観ている。今回の大会では、予備予選、1次予選までを聴いて、本選まで残るのは日本をはじめ東洋系のピアニストばかりじゃないかと予想していたことは既に書いた通りだ。日本人ピアニストに初優勝して欲しいという気持ちは人一倍だったつもりだ。


特に今回挑戦した日本人コンテスタントは稀に見る粒揃いの俊秀で、反田、牛田、角野、小林の誰かが優勝するだろうと期待していた。結果はご存知の通りだが、私の採点では反田君が優勝、小林さんが2位か3位、そしてなぜか本選に進めなかった角野、牛田両君は当然、本物の才能と実力からして本選に進むべきだったし、進んでいれば優勝も含めて上位入賞は間違いないと思っていた。


だから、今回の大会の審査はおかしいと思い、もう遠慮なく本当のことを書くべきだと思ったのである。


今回優勝したブルース・リウはほぼ完成された良いピアニストだ。彼の演奏は全て聴いたが、第1次予選から本選に至るまで、審査員の採点でずっとトップの評価を得ていたことを知って驚いた。私が聴いた範囲では、予選で彼以上の演奏をしたと思うコンテスタントは何人もいる。彼らはなぜか審査員の評価は低く、予選で次々に落ちていった。


 ブルース・リウの先生は審査員の一人だったダン・タイ・ソン。勿論、ダン・タイ・ソンは弟子のリウの審査はできない。17名の審査員の中ではダン・タイ・ソンとアダム・ハラシェビッチの2人が過去のショパンコンクールの優勝経験者だ。ハラシェビッチは90歳近い高齢だ。審査員の間でダン・タイ・ソンの存在と発言力の大きさが容易に想像できる。審査員間で何らかの忖度がなかった筈はあるまい。


コンテスタントが自分の弟子という例はダン・タイ・ソンに限らない。自分の弟子がコンテスタントにいる審査員は、審査員になること自体を最初から辞退すべきである。ショパンコンクールの権威と信用が次第に翳りを見せているのは、この辺にも理由がある。


ブルース・リウがこれから大成するかどうかは、今後の研鑽次第だ。ただ、如何せんポリーニ、アルゲリッチのようなカリスマ性は今の所感じられない。来年、日本でも凱旋公演するそうだが、わざわざお金を払って聴きに行くだけの期待感はない。


2位となった反田君や4位の小林さん、角野君、牛田君の方が天性のカリスマ性を持っている。だから彼らのコンサートには足を伸ばすつもりだ。


ただ、反田君には一つ大切な忠告したい。「聴衆はわざわざ高いお金を払って君の演奏を聴きに来る。君が聴衆に敬意を払うのは当然だろう? だったら、クラシック演奏家らしいまともな服装をしなさい」と。


昨今のクラシック演奏会で、よく見かける人民服姿の指揮者や、ノーネクタイの独奏者などのおかしな服装は芸術家の個性の発揮ではない。ただの間抜けな勘違い。


オーケストラと聴衆に無礼である。ドレスコードすら知らない、考え無しの音楽馬鹿に過ぎないということを露呈しているだけだ。