(1)公刊の経緯
多種多様な企業の社史編纂の実績をもつ日本経営史研究所では、最近における多国籍企業化の進展にともなう国際的なM&Aの動向に鑑み、英文版企業史刊行の重要性に着目してきた。RJRナビスコ社(米国)の海外事業部門やギャラハー社(英国)の買収などにより世界第3位のたばこ販売高を占めるにいたった日本たばこ産業株式会社(JT)の活動に注目したのは自然のなりゆきといえよう。日本経営史研究所の由井常彦前会長ならびに三和良一会長(注2)が『日本たばこ産業株式会社(JT)百年史』(日・英版)発刊を、JTに提案したのは2006年初めのことであった。
一方、財団法人たばこ総合研究センター(TASC)は、たばこおよびたばこ産業の人文・社会科学的研究を目的に設立され、かねてから欧米たばこ企業の経営史についての関心をもちつづけてきた。『アレンツ文庫世界たばこ文献総覧』(全7巻、TASC、1982〜1989)の全訳をはじめ、ナニエ・M・チレイ(著)『R.J.レイノルズたばこ社史』(TASC、1992)、H.コックス(著)『グローバル・シガレット---多国籍企業BATの経営史1880〜1945』(山愛書院、2002)、R.クルーガー(著)『灰から灰へ--- PM経営史と米国喫煙健康問題史』(TASC、2002)、フランシスコ・コミン・コミンほか(編)『タバカレラ---スペインたばこ専売史1636-1998』(山愛書院、2005)等々の翻訳・出版を手掛けている。しかも当時、比較経営史の気運においてたばこ産業も例外ではなくなっていた。TASCとしても、たばこ専売制度の確立から専売公社の終焉にわたる『たばこ専売史』の抜粋英訳を検討していたのである。
そもそも、日本たばこ産業史としては、『たばこ専売史』全6巻(計7冊)と『JT20年史』がある。しかし膨大であるばかりでなく非売品で、たいていの公共図書館にあるとはいえず、一般の人が手軽に手にとって、読み通せる書物とも言い難い。そこで、たばこの世界史から今日にいたるまでを1冊で概観でき、しかも読み物としておもしろいものを作りたいと考えたのである。さらに、海外で発展を続けるJTの活動が理解できるものを念頭に置き、日本語版のほかに英語版も作成することをめざした。
(2)本書の要点
第一に、たばこの起源からコロンブスによる世界的伝播、さらには日本への伝来から江戸時代までがプロローグとして掲げてあることから、それと本文とを合わせて読むことにより、「日本のたばこ産業」の世界史的位置づけが明らかになる。明治時代以降になると、数多くの民営企業に担われていたものが、専売制実施により大蔵省専売局による国営となり、第二次大戦後は半官半民の公共企業体・日本専売公社となり、1985年には民営化されて日本たばこ産業株式会社という特殊会社になった。つまり、日本のたばこ産業を担う組織形態は、二転三転どころではなく、大幅に変動してきた。この過程が簡潔に辿られている。
第二に、コロンブスの新大陸発見以降、旧大陸に伝えられたたばこは瞬く間に世界中に広がった。それとともに、16世紀の英国とスペインとの争いを例に挙げるまでもなく、葉たばこが急速に世界の主要貿易品目の一つとなったことは間違いない。さらに19世紀には、ボンサック紙巻機の発明を契機として、ジェームズ・B・デュークはアメリカンタバコ社を大企業に発展させ、さらに英国たばこ企業と競争の結果、大同団結してブリティッシュ・アメリカン・タバコ社(BAT)を創設し、世界市場を牛耳った。このように、たばこ産業は必然的に世界企業となる性格をもっていたし、原料の葉たばこも、製品の紙巻たばこも世界商品だったのである。この世界的競争の観点からみると、日本のたばこ産業はその脅威に絶えずさらされてきたともいえる。たとえば、明治の専売制発足の理由として日露戦争の戦費調達にあったといわれるが、見方を変えればBATによる日本市場浸食を恐れての対応とも推測される。第二次大戦後の日本再建を担った吉田茂首相はBATからの買収提案を検討したことさえあった(後に断念している)。一方で、日本のたばこ産業は、世界のたばこ企業から恩恵も受けていた。たとえば、東亜煙草株式会社は、当時のたばこ製造の常識となっていた中骨処理のノウハウを知らず難儀していたところ、ギャラハー社から技術指導を受けたおかげで、競争していくことができた。現在のJTはそのギャラハー社を買収するまでになったのだから、奇遇といわねばなるまい。
第三は、従来の専売史が「正史」としてすべてのトピックスを万遍なく叙述したのに対して、本書は経営史の観点から重点的に書かれた。そもそも経営史は、競争条件や経営資源の制約など企業の環境条件の中で、経営者たちがどのように戦略を立て適応していったかを研究することを目的としている。さらに、近年では、各事例の一般性と特異性を把握して類型化し、国際比較する試みが進められてもいる。そのため著者たちは、菊間敏夫、藤崎義久、筧正三、故・関口二郎、山田忠明、西原孝治、久野辰也、東辰哉、本田勝彦、染谷守彦、小泉光臣、藤本宗明、志水雅一(実施順)氏ら、専売公社からJTにかけて最前線の諸問題に立ち向かった方々にインタビューをおこなっている。本書著作者の問題意識は、日本のたばこ産業が、原料問題の制約や喫煙と健康問題の制約の一方で、外国企業との競争や技術発展へどのように適応していったのか、さらには日本社会に生起した喫煙と健康の問題等にどう対処したかにある。果たして、日本のたばこ産業の生産性は、国際的にみて上回っていたのか、下回っていたのか。また、社会的対応は如何、それらの点に留意して読むと、さらに興味深いだろう。
(3)日本語版と英語版の相違点
本書には日本語版と英語版との2種類がある。当初の原稿はもちろん日本語で執筆され、そのまま日本語版となったが、その英訳作業は、単純に縦のものを横にしたわけではなく、外国人にとって詳細すぎる説明を省略する一方、特殊日本的なわかりにくい点については説明を加えるなどの工夫が施された。翻訳にはT・I・エリオット氏が担当され、世界のたばこ産業史に造詣の深い東京大学経済学部客員教授レズリー・ハンナ教授の監修を仰いだ。その作業中、日本語版読者からの意見を反映することもできた。さらに、本書は全般にわが国たばこ製品のパッケージ写真を多く収録しており、他の社史にない特徴をなしている。口絵についても、英語版は16ページと、日本語版の8ページの2倍になっている。その結果、英語版では日本語版にはないデータや説明が加えられていることに注意していただきたい。
[おことわり] 本稿は、(株)JTクリエイティブサービス新聞編集部のご了承をいただき、『たばこ塩産業新聞(販売流通版)』2010年1月15日号から転載したものです。
たばこ塩産業新聞の購読は年間1260円(郵送料は別途)です。購読希望の方はJTクリエイティブサービス新聞編集部、電話03-3507-8568、FAX03-3507-8571へ申込下さい。
(注1)2009年に出版された書籍はこれ以外にも、(1)日労研編集部(著)『水たばこ---香馥時間』(日労研、2009.1)、(2)湯沢威・鈴木恒夫・橘川武郎・佐々木聡(編)『国際競争力の経営史』(有斐閣、2009.3)、(3)JTデザインセンター・たばこと塩の博物館(企画・監修)『ポケットの中のデザイン史---日本のたばこデザイン1945-2009』(美術出版社、2009.5)など多数あるが、本稿では紙幅の関係で6冊のみを紹介した。ちなみに、(1)は水たばこや水パイプに関する本邦初の書籍、(2)は上記『日本たばこ産業 百年のあゆみ』の著者の一人である鈴木俊夫東北大学教授の「明治期日本の民営たばこ産業と国際競争---アメリカン・タバコ社と村井兄弟商会」という論文が掲載されており、(3)は日本のたばこのパッケージデザインが網羅されている。
(注2)これらは2006年での役職であり、2009年現在は田付茉莉子・青山学院大学教授が会長代行を務めている。 |