大会参加記
パイプ世界大会初参加行状記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第11回パイプスモーキング世界選手権大会が平成18年10月15日マラースケ・ラズーニェで開催されると聞いたが、そこはチェコにある町だということであった。最初に開催予定を聞いたときは、自分の世界地図にも載ってない町だしどんな所だろうと思った。参加については大いに迷っていた。連盟の計画した日程ではサラリーマンの自分には長すぎて付き合えない。いろいろと考えたり聞いたりした結果、往復は自分で計画して現地で日本からの皆さんと合流して大会に参加することにした。 ところで開催地チェコのマラースケ・ラズーニェMarianske Lazneは勿論現地チェコ名、しかし、これをドイツではマリエンバッドMarienbadというそうな。ためしに手元のドイツ語の辞書を引いてみたら『地名:現チェコ領ボヘミアの保養地』となっていた。首都プラハから西へ約190kmでドイツ国境から東へ約30kmのところに置する保養地である。このような催しでもない限り普通の日本人は訪れることはないだろうと思う町である。『地球の歩き方 中欧』にもこの町の事は書いてない。 とにかく『HIS』に飛び込んだ。すぐにチェコの首都プラハまでの往復の航空券とホテルは予約できた。今回は一人旅となるため格安旅行と思ったが女房の忠告で五つ星のホテルにした。そして、プラハから大会々場の町マラースケ・ラズーニェまでは列車で行こうと思ったが、「扱っていないので現地で直接自分で購入してくれ」という。この機会にと思い、オペラの切符の手配を頼んだが、これもダメだという。予約先ホテルのコンシェルジェConciergeに頼めば何とかなるだろうということにして、いざ出発。 成田を出て経由地スキポールSchipholに到着した。スキポールからのプラハPraha行きは最終便となった。プラハのホテルでコンシェルジェと明日以降の行動予定を打ち合わせた。自分は列車でマラースケ・ラズーニェ往復をしたいと頼むのに、それは止めとけと強硬に言う。「東洋人が一人で、しかもこのような大きな荷物を持って列車で行くのはよくない。以前にもこのように案内して結果的には、大変喜ばれた」という。仕方ないのでしぶしぶホテルから差し向けの車で往復することにした。 マラースケ・ラズーニェに着いた。ホテルでチェックイン時に「日本人客は他にいるのか」と尋ねたら「東洋人はお前だけだ」とのこと。「パイプの大会がこの町で催されるが会場はどこか教えてくれ」と頼んだら「知らない」と云う。青くなって「それは困る。良く調べてくれ」と頼み込むと、奥に入っていき暫く経って地図をもってきてマーキングしてくれた。安心して部屋に入る。 先着の連盟会長鈴木さんのホテルに電話したが繋がらない。梶浦さんも斎藤さんも繋がらない。急に心細くなって、兎に角教えてもらった会場に行ってみた。すると、現地の役員に会うことができた。互いに自己紹介したが相手の名前は難しくて憶えられない(名刺の交換をしなかったのが残念)。会場を見せてくれた。圧倒された。この会場はカジノCasinoとして建てられたものを近年になって集会場Town Theatreとして使用しているとの事であった。今回の世界大会理事会が開かれるホテルに隣接した建物で大理石の柱や壁であり大変荘厳な感じを受けた。 この町は温泉地ではあるが日本でいうそれとは趣が違っていた。湯煙も見えない。ヨーロッパの温泉は基本的に治療のためのものであって、現在も治療目的で訪れる人が多い。浴用よりも、飲用治療が主であることが大きな特徴である。18世紀末医師のダヴィド・ベヘール(David Becher)が温泉水を飲んで治療に役立てるという飲用治療を提案し、それが定着したということである。人々は温泉水飲用のための独特の形をしたカップを手に持ち、コロナーダKolonadaで温泉水を汲んで少しずつ飲みながら、ゆっくり散策を楽しんでいる。周囲はボヘミアの深く豊かな自然に囲まれている。紅葉が実に美しかった。 小生が宿泊したホテルにも、プールありサウナありマッサージ室ありで日本で言えばプール付きフィットネスクラブの豪華版といった趣であった。勿論泊り客は全て無料ということであった。町の交通手段は普通のバス、トロリーバスそしてタクシーである。観光用の馬車もあった。しかし、何といってもゆったりと散歩をするのが似合う町であった。大会々場の前は傾斜地を利用したこの町最大の良く整備された公園で、雰囲気も最高。東京の日比谷公園など足元にも及ばない。一番上の端にはミュージアムMuzeumがあり、そこの一室でパイプの歴史を展示していた。鈴木会長によれば大したものではないとのことであったが、一見の価値はあった。隣の部屋には文豪ゲーテに関する展示物があった。ゲーテがこの町に暫くの間滞在したとかで、入り口の前にはゲーテの銅像が建てられていた。この博物館を出て少し下った所に教会がある。この町に二つある教会のうちのローマカトリック・マリア教会である(他の一つはロシア教会)。聖歌隊がモツアルトのレクイエムの練習をしていた。教会から右に歩くと大きなコロナーダがありそこの前庭には美しい噴水があった。なかでは温泉水を飲んだりお互いに話をしたり和やかな雰囲気でにぎわっていた。周囲にはちょっとしたショッピングを楽しむ所もあった。そこから下ると綺麗な芝生の広場。ベンチでは日向ぼっこを楽しむ老夫婦がいたりで、誠に一幅の絵のような感じを受けた。そこを更に下った公園の端に、第二次世界大戦時アフリカ戦線で活躍しヨーロッパ戦線では第3軍を指揮して活躍したパットン将軍General George S. Pattonの記念碑があったが、謂われは自分には判らなかった。なぜだかそこにいた我がクラブの本庄老人は「そりゃーお前、この将軍はドイツまで来たんだから、この町にもやってきて人々を救ったり開放したりしたんだよウン」と一人で納得していた。 10月14日(土)はパイプワールドショーPipes and accessories exhibition World Show。大会競技会場の隣の部屋に喫煙具とタバコそして大会にちなんだバッジ等が並べられていた。日本の全国大会に似た雰囲気である。ここでハンドメイドパイプで世界的に有名な後藤景一氏の作品を見ることが出来たのは有益であった。勿論、全て売約済みになっていた。六本木クラブの例の老人は、外国人作家のすごく立派なかつ高価なパイプを購入して大満足の態であった。しかも、今回の世界大会で初めて出される競技用タバコが並べられていたのを全て買い占めてニコニコしていた。おかげで買いそびれた日本からの参加者の思いたるや・・・。そして、午後7時から晩餐会Gala dinnerである。冒頭では、どこでも見られるとおり色々な人々の挨拶が続いたが、日本語の解説がないためによく判らず、大変退屈であった。しかし、全体的に雰囲気はすこぶる華やいだものであり豪華であったが、食べ物そのものは日本の全国大会のほうがボリュームがあり品数も多い。改めて日本の大会役員の方々に対する感謝の念がわいた。 翌15日(日)は、いよいよパイプスモーキング選手権大会である。これをSlow Pipesmoking World Championshipと表示されていたのには、妙に納得したものである。きけば、パスポートを紛失して日本を出国できなかった人、旅行中に盗難に遭いカバンをなくした人、こけて怪我をした人、或いはホテルで器物を損壊した人等々それぞれを引きずってこの町にたどり着いて、競技会場のテーブルについたのは22名(鈴木会長は大会役員のため競技には参加されなかったため数に入れていない)であった。 競技会のテーブルには約20名がつく。そして審判員がつく。我々のテーブルについた審判員、これがまた可愛いひとであった。プラハの専門学校でホテルのことを学んでいるとの事であった。しかし、これら審判員は単に計時するのみでなくバイオレーションをしっかりと見張っていて、その役割にプライドを持って堂々とした態度で臨んでいたのには感心した。日本も大いに見習わなければと思った。時計はコンピュータ制御の大きな掲示板のようなデジタル表示のものが会場の周囲に配置されて、審判員にも参加者にもよく見えるように配置されていた。従って、審判員の目線が常に上を向く事になりテーブルの選手の状況を把握しやすい状況であって、不正等をチックして注意したりしていた。リタイアすると、すばやくそれを読み取り記録用紙に記入していた。更には、日本大会でいう競技司会者はいなかった。それでも喧騒にならず、粛々と競技は進行していた。 いざ競技が開始されると、さすがに緊張した。着火時の緊張たるや、尋常ではなかった。遠く日本からここにきて、着火ミスなどしたら帰って皆に合わす顔が無いとかカッコ悪いとか思ったりした為である。よって、何時もより大きな火にしてしまった為、以後ゆっくり吸っても、バンバン燃える。その結果、早くに吸いきってしまい、リタイアの合図の手をあげるのと可愛いが厳しい審判員が終わったんだろうと目配せをしてきたのと殆ど同時であったのには驚いた。成績は下に記録したとおりである。 リタイヤした人や同行してきた家族等が待機できるよう、競技会場の隣に部屋が用意されていた。ここではバーのようなコーナーが設えてあり飲みながら軽食もとれるようになっていたのもしゃれていた。早くにリタイヤした人や仲間で盛り上がっていた。参加各国の人々の交流の場にはもってこいの雰囲気であった。 優勝者が確定したところで参加者がもとのテーブルに戻り表彰式が行われて、全ての行事が終了した。 終わって、鈴木会長がディナールームをセットして日本から当地へ来た家族を含めた全ての人を招待してくれた。豪華な雰囲気であった。それにしても、参加者全員が極めてリラックスしてフレンドリーに楽しく過ごせたのは鈴木さん、梶浦さん、斎藤さんのお骨折りのおかげと改めて感謝の念が沸きあがったものであった。 次回世界大会はポルトガルにて2010年に開催される予定であるとの事であった。 |
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