パイプの愉しみ方
日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC、関口一郎代表世話人)は、我が国の婦人パイプスモーカーの草分け的な存在である市川澪さんに、平成22年12月の第44回年次総会で「JPSC 栄誉賞」を贈呈して顕彰した。第3回パイプスモーキング世界選手権大会でのレディース優勝、全日本選手権大会での初代のレディース優勝を始め、数々の大会での赫々たる成績、並びにパイプを通じて内外の著名人と幅広く交際してパイプの普及に多大なる貢献をした業績を称えたものである。
今年で傘寿を迎えられた市川さんは、総会での受賞記念スピーチで、ご自身とパイプにまつわる様々な思い出話や逸話を披露して満員の会場を大いに沸かせた。世界ではパイプを嗜むご婦人はそう珍しくもないが、我が国ではまだまだ貴重な存在である。日本パイプクラブ連盟は市川さんに往時の回顧談をお願いし、快諾を得たので、インタビュー形式で2回に分けて連載したい。
「パイプに惚れて 1」
―――パイプを始められた切っ掛けは?
日本パイプクラブ連盟(PCJ)が昭和51年に東京で初めての世界選手権大会を主催することが決まり、世界中からパイプのスモーカーが集まってロングスモーキングの技を競い合い、その中にはレディース部門もあるというので、当時の連盟会長の柏木大安さんが女性のパイプスモーカーを今のうちから養成して鍛えておこうということになったそうですの。昭和49年の初夏のことでした。
柏木さんが所属していたJPSCでは、当時は「女はクラブに入れない」とか言う方もいらしたそうですが、世界大会にはレディース部門もあるのに、そんな野暮なことは言っていられないということになったそうで、JPSC会員の方が、日本専売公社が経営していた当時の新宿たばこセンターにたむろして、シガレットを吸っていて、なんとなく脈がありそうな女性に片っ端から声をかけ、「パイプを始めないか」と勧めたものの、全員に断られたとかいう笑い話も漏れ聞きました。
私は昭和25年から洋裁学校でずっと教えておりましたが、ちょうどその頃、柏木さんのお嬢さんが私の教え子で、そんなご縁で柏木さんご一家と親しくなりました。柏木さんは婦人のパイプスモーカーがなかなか見つからずに弱っていらしたそうですが、お嬢さんが柏木さんに「私の洋裁の先生はメンソールのシガレットが好き」と電話で話したそうです。それで私にどうも白羽の矢が当たったようでございます。(笑)
ある時、パイプを銜えていらっしゃった柏木さんに「婦人用のパイプはないのですか」と冗談で伺ったら、「それでは僕が明後日までに作っておくから、取りにおいで」とおっしゃって、それでパイプとのご縁ができてしまいました。
柏木さんが最初に私に作って下さったのが、1グラム用のとても見栄えのする小ぶりの婦人用パイプでした。そのパイプで最初に喫わせて頂いたのがニーメイヤーのたばこ。アプリコットブランデーの素晴らしい香りがするたばこで、すっかりパイプに魅了されてしまいました。柏木さんにはこの後、2グラム用のパイプも頂戴しました。
そのうちに柏木さんから、所属なさっていたJPSCの例会にゲストとして出席するよう誘われるようになりました。初めて例会に伺ったら、皆さん教養のある素敵な紳士の方ばかり。女性ゲストということで、とても歓待して頂きました。そのうちに薦められるままに会員になってしまいました。そしたら皆さんが「今年(昭和49年)の第3回全日本選手権大会からレディース部門を創設したので、市川さん、出場してくれ」とせっつかれました。
実はあまり気が進まなかったのです。でも、思い切って出場してみたらタイムは63分と平凡でしたが、パイプ歴わずか4ヶ月の私が優勝して初代のレディースチャンピオンになってしまいました。第3回大会はJPSCが団体、個人、レディースと完全優勝しました。優勝すると、どんな催しであれ嬉しいものですし、結構な賞品もたくさん頂戴しました。何よりもJPSCの仲間の皆さんがとても喜んで下さったので、それですっかりパイプの世界に入り込んでしまったということでございます。
全日本大会への出場には気乗りがしなかったと申し上げましたが、実は大会前に3グラムで一人で練習していて1時間を超えられなかったら、出場は取りやめようと思っておりました。練習では30分から50分程度でいつも消えてしまっておりましたが、一度だけ1時間を超える記録が出て、それでようやく出場する決心がつきました。
本当は、大会前に柏木さんやJPSCの菅沼清二さんがロングスモーキングの方法を特訓してくださるというお約束でしたのに、口だけで何もしてくださらなかったの。そんなこともあって、この時の全日本大会は午後1時開始なのに、私が会場のホテルオークラに到着したのは開始10分前。JPSCの皆さんが「やっぱり来ないんじゃないか」と、やきもきしてとても心配なさったそうです。(笑)
実は母には内緒で出場しましたの。今でも多少はそうかもしれませんが、女がたばこ、シガレットを喫うことに対して、なんとなく品がない、女の嗜みに悖るという雰囲気が社会的にございました。まして女がパイプを喫うなどとんでもないというのが社会通念でした。母も家でパイプを銜えている私の姿を見て、諦めていたようですが、まさか人前でパイプを銜えるとは思ってもいなかったと思います。弟と妹には内緒で出場すると教えていたので、「応援に来る」と言っていましたが、ビリだと恥ずかしいので断ってしまいました。
女性の参加はわずか5名。50分を超えて私ともう一人女性が残っていましたが、その方が消えてしまい、私が初代のレディースチャンピオンということになりましたら、取材に来ていらした新聞や雑誌の報道陣の方々が、当時は女のパイプスモーカーは物珍しいということもあってか、写真をパチパチとたくさん撮られました。
後で伺った話でございますが、当時、横浜パイプクラブの会員だった、あるご婦人のパイプスモーカーが「私が絶対にレディース優勝するわよ」と公言なさっていたそうでございます。しかし、パイプを始めてわずか4ヶ月に過ぎない初心者の私が優勝してしまったので、よほど悔しかったのか、それでパイプを止めてしまわれたということでございます。なんだか悪いことしてしまいました。
――次の第4回の全日本選手権大会でもレディース優勝なさいましたね。
ええ、帝国ホテルで開催しましたが、運良く連続して優勝いたしました。実は全日本大会に初めて出場した際のスカートには、パイプの煙が立ち昇るのデザインしてあしらえましたが、二度目の大会の際には、若草色のブラウスに金色の刺繍でパイプを散らしました。下のロングのスカートは純白でしたの。洋裁教師でしたので、色々と出場する際の服装にパイプをデザインしてみて、JPSCの殿方の皆さんにとても喜んで頂けました。
パイプを始めて3年目の昭和51年は、私もロングスモーキングにすっかり習熟し、JPSCの例会でも3グラムでいつも80分台の記録を出すなどとても好調でございました。私に一からパイプの喫い方を伝授して下さったベテランの殿方たちを差し置いてJPSCの年間優勝を飾るほどでございました。
昭和51年11月7日に東京・帝国ホテルの孔雀の間で第3回目の世界選手権大会が開催されました。世界大会が迫ってきたので、主催国のナショナルクラブ連盟として恥ずかしくない成績を収める必要があるということで、主力クラブのJPSCは直前の日曜日に世話人の白木原明宏さんの山中湖の山荘で強化合宿を行い、私も参加させて頂きました。
本番同様に3グラムでスモーキングコンテストを開催しましたが、皆さん早々に火が消えてリタイアされ、釣りに行ってしまいました。残された私はただ一人、ポツンと残った事務局の入江勤さんにタイムを計って頂き、122分12秒の最長記録(JPSC公認)を出すことができました。その後、京都の高島屋で開催された地方大会でも優勝するなど、乗りに乗っていた時期でございました。
京都の高島屋で開催した地方大会では午前と午後に2回のスモーキングコンテストがございました。午前の部では私が優勝しました。午後の部も優勝する自信がございましたが、東京からやってきた女が連続で優勝するのは生意気と思われるかもしれないと思って、京都の男性の方に勝ちを譲って、私は2位でした。東女に京男なんてね。(笑)
京都大会で活躍したものですから、日本専売公社の京都支店長にお気に召して頂けて、支店長専用車で京都見物をさせて頂いたのが、忘れられない大切な思い出でございます。広隆寺に弥勒菩薩を拝観に伺いまして、菩薩様の左手が人差し指を立てて、中指と薬指を閉じて、小指を立てているのを拝見し、あの左手にパイプを乗せて喫ったらさぞ優雅だろうな、と不謹慎なことを想像したものでございます。円通寺から拝見した比叡山の景色がとても綺麗で、心から感動し、ふと自分の戒名を思いつきました。
――どういう戒名ですか?
「円通妙澪大姉」というのでございますの。自分で付けたのですが、何だか滑稽で、おかしゅうございますでしょ。
もう時効でしょうから、お話して良いと思いますが、その晩は支店長さんの格別のお計らいで、作家の火野葦平さんの彼女が経営する料理屋に特別に泊めて頂きました。東京に戻ってから京都を案内して下さった彼女にお礼にデミタスカップを贈ったら、彼女が素晴らしい薔薇のコサージュをわざわざ作ってプレゼントして下さいましたの。
そのコサージュを一目見て気に入って、とても運気と縁起が良い感じがして、11月の世界大会にはブラウスに付けて出場したら、レディース優勝できたのです。素晴らしいコサージュを付け、黒のロングスカートにはメシャムの大輪の薔薇のパイプから煙が立ち昇っている絵を描いて頂いていたのですから、内心では優勝するべくして優勝したと感じました。