パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −2−
僕の家が焼けたのは地震から3日目です。上野の山から浅草の自分の家が焼けるのが、見えていました。浅草の観音様は、大震災の時は焼けないで残ったが、今度の戦争(大東亜戦争)では、焼けました。
火事で言うと、竜巻が凄かった。色んなところで火事による旋風がひっきりなしだった。舞い上がったのはトタン板、幅3尺(90センチメートル)、長さ6尺が一番多かった。目撃した中で一番大きかったのは大八車が旋風で宙に舞い上がっていた。旋風は色がどす黒く、凄いなと思った。
――避難生活はどんな様子でしたか?
テントなど無く、野宿だったね。食事は根岸の親戚が差し入れしてくれた記憶があります。関東大震災の時は、浅草の花屋敷の象も、浅草の仁王門の柱に縛り付けられて避難していたね。親戚が東京にばらばらにいたので、僕が行って安否を確かめて、上野の山に戻って両親に報告した。
大震災の少し後になっての話だが、大正12年の夏は赤とんぼが異常発生して、9月1日の前に、空一面に赤とんぼが北の方角へ飛んで行くのを見て、今年は何かあるんじゃないかと両親が話していたね。
付録的な話ですが、祖父様(じいさま)は家が焼けるまで3日間、家に残りました。祖父はオヤジと同じ左官でして、あの時分は若くして隠居しました。歳がいくつで隠居したかはわからないが、60歳にはなっていなかったね。趣味と道楽で盆栽をやっていまして、皐月(サツキ)が得意で、名前を芳五郎と言ったもので、盆栽仲間ではサツキの芳さんと呼ばれて幅を利かせていました。昔の盆栽の番付で上の方にいたそうです。芳さんは、家に火が付くまで3日間、頑張って家にいました。いよいよ火がついたので、あきらめて上野の山に逃げてきました。
当時、私の家のまん前に由緒あるお寺、源空寺がありました。江戸の侠客幡随院長兵衛や、絵描きの谷文晁、日本地図を作った伊能忠敬、その師匠の高橋至時(号、東岡=とうこう)の墓があって、東京市の史蹟になっていました。僕が子供の時分に幡随院長兵衛の墓を改修するというんで、どんな骨だろうと思って見に行ったことがある。
上野の山に最短距離で行こうとすると源空寺の墓の間をうねって行くのですが、芳さんは、仏様(=仏像)が、お寺の中に転がっているのを見つけ、その仏様を半纏にくるんで、上野の山に逃げてくる途中、どぶ川の中に滑って入り、川べりの奥に押し込めた。
その仏様が重文になるような文殊菩薩像で、後に川から引き揚げて(再建された)お寺に返しました。それで、源空寺は目出度いというので文殊さんのお祭りをするようになって縁日が出るようになった。文殊さんに備えた果物を縁故のあるところに配るが、文殊さんの縁日にはうちにも下がりものの果物が配られるので、僕は楽しみにしていました。しばらくして寺の住職が代わったら、何の音沙汰も無くなった。文殊さんは戦災で焼けたかもしれないね。
(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)