パイプの愉しみ方
関口一郎 パイプと吾が人生を語る −3−
大震災の当時、朝鮮人虐殺事件というのが起きて、今でも尾を引いているようだから、あの真相を話しておきたい。
僕の親父の弟に清二という叔父がいて、昔、女の櫛(くし)、笄(こうがい)をセルロイドで造る事業を始めました。櫛や笄は、贅沢で高価なものは鼈甲(べっこう)製だったが、それを安いセルロイドで類似品を造ったわけです。セルロイドの櫛、笄が評判良くて、その仕事が有卦に入ると、従業員をたくさん雇い、同じ松葉町の町内で製造していました。
叔父さんの家だから僕は良く遊びに行ったが、従業員に出稼ぎの朝鮮人がたくさん来ていた。賃銀が安いから叔父さんはたくさん使っていた。(朝鮮半島の)北から来たのか、南から来たのかわからないが、北と南では、昔は高句麗と新羅と別の国だから、朝鮮人同士お互いに反目して、仲が悪かったね。
地震が終わって火事だと騒いでいる最中に、格式のある禅寺の海禅寺(台東区松が谷)の井戸に朝鮮人が(殺鼠剤の)猫いらずを放り込んだという噂が立った。海禅寺の井戸は、良い水が出るからと皆、飲み水の当てにしていた。猫いらずは、黄燐を使った当時の新製品で流行していた。また、お腹の大きい婦人が爆弾を抱えているから、見つけたら捕まえろという噂もあちこちで広がった。噂が噂を呼んで段々膨張した。そこで自警団と言って、若い衆が組まされて、その連中が朝鮮人を捕まえた。、
左官屋のうちにも職人をたくさん使っていたが、東北(地方)から来ている人が多いから、しゃべっていても(東京の人間には)言葉がわからない。朝鮮人と間違って東北などの田舎の人も捕まって「いろは、を言ってみろ」と言われて言えなくて、間違って殴り殺された例もある。
うちの親父は血気盛んだったから、「俺に付いていろ、俺から離れるな」と言って自分の家の職人、叔父が使っている朝鮮人の職工を身体を張って守った。だからうちも、叔父さんのところも被害はなかった。
――お父様の話が出ましたが、どういう方でしたか?
父は左官でした。祖父も左官。その前は本郷の鳶(とび)でした。浅草に移ったのは、明治になってからです。本家は本郷の神田明神のところにありました。「か組」の鳶職だったと聞いています。当時の帝大、今の東大は昔、加賀屋敷跡だった。加賀の大名火消、加賀鳶だったそうです。
――関口家のご先祖は金沢からいらっしゃったのですか?
いや、(江戸時代に)大名火消の加賀鳶になった。大名火消の見栄というか権威というか、大名屋敷だけを守るために六尺(約1メートル82センチ)以上の大男でないと加賀鳶になれなかったそうです。(その子孫の)僕は小さいがね。(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)